氷辺獄

作家: Kyoshi Tokitsu
作家(かな):

氷辺獄

更新日: 2023/06/02 21:46
その他

本編


 どこから来た? ここは寒い。昇ることも堕ちることも許されない者が集う真っ暗な宙づりの闇。煤のような真っ黒な雪が漆よりも深い空間に降る。お前さん。どこから来た? 私もだ。分からない。過去から? いや未来からかもしれん。いや待て、時間軸は不可逆か? 俺は自我を持たない、自我の集合体。じきにお前さんも僕の一部になる。なに、恐れることはない。思考は霧散する。粘着質の渦の中で眠ればいい。放棄しろ。放棄しなさい。それが許されるなら、それに身を任せられるなら、千年でも万年でも留まってゆけ。それに飽きたなら。そうだ、この淀みから外れるといい。この空間に降る煤の雪が見えるだろう? 君もそうなる。どこまで落ちて行くのか、分かるはずもないが、きっと底までは行き着けないでしょう。落ちて行け、そしてまた堕ちてこい。淀みは常にここにある。お前も私も当分はここから出られぬのだろうから。君、どう思う? ここは救済か? 拷問か? 我ら、いや、私にはもはや丈夫な思考は残されていない。ただ巡る幾千人もの自我が俺を形作っている。悪いものでもないぞ。イヤか? 私は中間層のあらゆる思考回路を持ってはいるが収束ということを知らない。誰でもないのだから。もうここにどれだけいただろう。忘れてしまった。刹那か永劫か。そんなことは問題ではない。そら、もう寒くないだろう。だって君はすっかり霜にまみれているからね。眠るか。その繭の中で。それもいい。ただ、ただ在れ。嗚呼、凍った凍った芯まで凍った。溶解は望めぬか? 救いを求めたままで固まったか。それもまた、良し。

 明かりを灯そう。さあ、君、どんな光景が見えると思うね。この氷辺獄は認知ができぬゆえ、君になじみ深い光景を使って投影しよう。



 凍土。果てしなく彼方まで見晴らせた。石筍のような薄ら青い大小の結晶が至る所から突き出ていた。そのうちの最も手近な一つに近づいてみた。嗚呼、胎児が凍っている。ここで悠久の時を過ごして救いを待つのかと思うと眩暈がした。この透き通った無数の水晶がすべて救済されるには一体何千億年かかるだろう。果てしない。果てしない。
 草木もない真っ黒な土を踏みしめ踏みしめ歩いた。しばらく歩いたころ、川にぶつかった。流れの緩やかな細い川である。その気になれば一足で飛び越えられるであろうその川を私はじっと眺めていた。その流れが凍結する寸前まで冷却された水は美しかった。チロチロと小さな音が耳に響いた。他には何の物音も無い。上流まで行ってみることにした。霜の崩れる僅かな音ですら私の三半規管を揺らすほどに思われた。ふと目の前に、真っ黒な雪が天から落ちてきた。それは凍土に着くと途端に例の胎児をはらんだ石筍となった。その様をじっと眺めているうちに私はぼんやりしてしまっていた。何も考えなかった。いっその事、この間に狂ってしまうことができたならどれ程幸福だったろうか。
 頭上で声が響いた。見ると曇天に小さな影。鷹であろうか。再び歩き出すことにした。川上へと歩いて行くと、やがて針のような塔が現れた。細長く、天に突き刺さるようにそびえるその氷の塔は曇天の色を映して寒々しい色に染まっていた。塔の周囲では概念としての時間が確かに凍結していた。塔の中には生命の原初のような肉塊が一切の運動に休息を与えられて凍り付いていた。そして、その塔を囲うようにして幾人かの女性たちが跪き、祈りを捧げるようにして手を組んだまま、静止していた。彼女たちの肌は透き通るように白く、穏やかに目を閉じていた。まつげにほんのりと霜が生じていた。塔に眠る「彼ら」の安らかな沈黙を護るため、ヴィーナス達は己の魂を捧げて祈っているのだった。見ると、彼女たちの中心にそびえる塔から針金のような筋が幾本も伸びており、それが彼女たちの胸を貫いていた。その光景を目にしたときに私に宿った感情は、あらゆる運動の凍結という永劫の平穏に対する安堵と陶酔。それから、いずれ、この平衡が再び時間の概念に侵略され、融解してゆくことへの不安と恐怖であった。私はこのヴィーナス達の祈りが永遠のものであることを願った。とにかく私には永劫の溶解がたまらなく恐ろしかった。



 どうだ。ここの有様は。みんなお前とおんなじさ。肉体的、精神的な運動に疲れ果て、安息を求めているのだ。同情できるだろう? 私達もそうだった。だからこそここはこんなにも寒い。しかしどうだ、概念的時間の凍結を求めてこんな氷辺獄なんてところにやって来たが、どうだ? やっぱり君は融解を恐れているではないか。本当は気づいているんじゃないのか? 時間の凍結など不可能だということに。いや、そうじゃない。時間などというのはお前が、私たちが勝手に作り出したものだろう。本当はそんなもの、存在してないじゃないか。あるのはただ変化のみ。己が崩壊し、構築される。その繰り返しだろう。お前たちがそれから逃れたいがために己の変化を恐れて、時間などという存在しない悪魔を作り出したのではないのか? 万物流転だよ。つまりは炎だ。我々は炎であるにもかかわらず揺らめき、弾けることに恐怖するんじゃないか。だからみんな炎の対局である氷に安息を見つけたのじゃないか。
 さあ、ありもしない魔物を凍結するのはもう止したらどうだ。炎を受け入れたまえよ。恐れる必要はない。流転に消滅は含まれていないのだから。



 途端、これまで静寂を維持していた空気に瓦解の兆しが生まれた。それは文字通り、何かにひびの入るような「ピシッ」と言う音であった。肉塊を孕む灰色の塔か、ヴィーナスたちかに亀裂が産まれたのであろう。いずれにせよ私に安楽を与えている光景に何かしらの変化が訪れた音だと直感された。あるいただの空耳であったのかもしれないが、私の耳が知覚したこの微かな刺激は私の三半規管に反響し、増幅され、大きなうねりを伴って私の脳髄を恐怖の情で塗りつぶしてしまった。
 諸行無常。肯定せざるを得ない絶対的な真理が凍土の広がるこの地にまで侵食してきていた。刹那、私はその場に立っていられなくなり、無我夢中で駆け始めた。どこへでもいい。とにかくこの真理の到達しえない彼方まで、私は逃げなければならなかった。時間と空間の凍結という完全の平穏が約束された地まで、私はすぐにでも逃げ込みたかった。凍土が生み出した、刺すように冷たい空気を切って、ひたすらに駆けた。冷気が私の肺を満たし、胸は鈍痛を覚えたがそんなことは問題でなく、ただ一切の変化を禁じている安堵の地へ至るために私は走り続けた。いつの間にか、あの黒い雪もすっかりやんでしまっていた。

 どれだけ走っただろうか。とうとう私はこの上走る続けることはおろか、歩くことすらできないほど疲れ切ってしまい、その場に倒れこんだ。硬く黒い土で膝が擦れたが、そんなことは問題ではなかった。肺が酸素を求めて収縮し、冷気が気道を痛めつけ、心臓は早鐘を打ち、耳の付け根がじんじんと痛んだ。私は仰向けになると、呼吸が落ち着くまでの間、ただじっと曇り空を眺めていた。初めて見たときから何の変化もない、鈍色があるだけだった。この厚い雲の奥に果たして太陽があるのか疑問に思えるほどだった。雲はゆっくりと左から右へと流れて行った。その様を見つめているうちに私の心臓も次第に落ち着きを取り戻していった。
 やがて、私はその場に起きなおると胡坐をかいた。改めて考えると、先程までどうして自分があそこまでの恐怖を覚えたのか、そしてその対象が何だったのか、急にぼんやりとしてしまった。

 背中に熱を感じた。驚いて振り向くと地面に大きな窪みがあった。そしてその中にはどれ程の火種があるのかと疑いたくなる程の、私の身の丈をはるかに超える大きな炎が音もなく燃え盛っていた。炎は激しく、時折吹き付ける寒風もそれを揺らめかせることはできなかった。その輝きに私は思わず目を細め、二歩、三歩と後ずさりした。それは私が最も恐れていたものであったが、目の前の巨大な炎の柱こそ、私の行くべきところであるかのように思われた。
 炎は確かな輪郭で周囲の空気との境界をはっきりと保っていた。その先端からは無数の黒い塵が曇天に向かって勢い良く舞い上がっているのが見え、私には、この塵が先刻目にした黒い雪になるのだろうと不確かな確信をもって感ぜられた。この時、私の脳は何かしらの働きをしていたものの、私の身体の方はすっかり石化してしまっていた。
 不随意に、生まれた歩行を意識的な反射で硬直させたものの、何かに導かれるように私の歩みは止まらなかった。一歩、また一歩と私の身体は燃え盛る火柱へと近づいてゆき、熱気のために薄い頬の皮膚は熱せられ、とうとう目を開けていることすら困難になってしまった。それでも目を細めながらしばらくの間は目と鼻の先にある流転の象徴を眺めていた。
 長い間、私は立ち尽くしていたが、やがて本能に導かれるようにして、炎へと、身を、投じた。

 熱に包まれ、私は自身の身体が崩壊するのをはっきりと自覚した。皮膚、筋肉、臓腑、骨格、毛髪。すべてが炎に瓦解し、散り散りになったそれらはあの曇天へと吹き上げられていった。刹那、私だったものは無数の塵になって寒風に乗り、拡散された。もろい肉体に閉じ込められていた幾千もの霊的な破片が冷気の中に漂う微粒子のような霊と接合し、それは黒い雪となった。雪はやがて凍土に降り立ち、氷の石筍となった。
 嗚呼、私は今、胎児になったのだ。
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