鈴木さん

作家: 青月クロエ
作家(かな): セイゲツクロエ

鈴木さん

更新日: 2023/06/02 21:46
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本編


 独り暮らしを始めたとか言うから、冷やかしに行ってやろうじゃないか。
 揶揄いまくった末、強引に取りつけた約束の時間まで大分ある、だなんて。
 昼寝をしたのがそもそもの大失敗だった。 
   
 ふと目を覚ませば、窓越しに映る空は青色から茜色に――、つまり、とっくに約束の時間は過ぎていた。
 スマートホンの着信履歴には二回、あいつからの連絡が。
 布団から飛び起きた僕は着の身着のまま部屋を飛び出し、あいつが暮らすアパートへと全力で自転車を走らせる。

「やっべぇ……。絶対怒ってるだろうな……」
   
 アパートに到着するなり、日に焼けた石壁に自転車を立て掛ける。
 実際は石壁に向かって放り出したようなもので、ガガガッと嫌な音を立てて自転車は倒れていく。
 僕は気付かない振りをして錆びついた鉄製の階段をカンカンと踏み鳴らし、二階まで急いで駆け上がると同時に、更なる問題が発生した。

「えーっと……、あれ、202か203どっちだったっけ……??」

 塗装の禿げたトタン壁に等間隔で設置された五つの扉の前を、うろうろと何度となく往復。
 あいつに電話すればいいだけの話だけれど、約束の時間に大幅に遅れて到着した上に部屋番号も忘れたとなったら、長々と説教されるに違いない。
 それだけはマジで勘弁してほしいわ。でもなぁ、どうしよう……。
 後ろ手でズボンのポケットを弄ってはスマートホンを取り出すかどうか、しきりに迷っていた――、が。

「……ん??『202 鈴木』……」

 扉上部――、申し訳程度に貼られた表札に視線を巡らせた時、僕は取り出しかけていたスマートホンを再びポケットに押し込む。
 あいつ――、鈴木の部屋は202だ。

   
 ピンポーン――

 ボロアパートの癖にドアチャイムの音だけはやけにでかいな。
 驚いている間にガチャリと扉が開く。
 濃厚で甘ったるい香水と煙草の香りでくしゃみが飛び出しそうだったが、すぐに引っ込むことになった。
   
 ドアチェーンは外さないまま、控えめに開けられた隙間から僕を見上げているのはあいつ、ではなく。
 大きな吊り目が猫みたいな若い女性だった。
   
 化粧を一切していないせいか眉毛が薄く少しぼんやりしつつも、やけにするどい目付き、視線。
 緩くウェーブがかった髪は長く金に近い茶色で、根元はちょっとだけ地毛が伸びていて黒い。
 ゆったりしたスウェットに素足にサンダル、気だるそうなのにだらしなく見えないのは顔立ちが整っているからか。
 どことなく自分に自信ありげな雰囲気から察するに、普段は化粧も服装も派手なタイプ、かもしれない。

「あ、あの……」
「………」

 目を細めたかと思うと、射貫くような非難がましげな視線を無言で突きつけてくる。
 鋭い視線に絡めとられた僕はがちがちに固まって身動き一つ取れない。

 ぽってりと柔らかなそうな唇から痛烈な罵倒を浴びせられるのか。
 はたまた、華奢な掌で頬を張り飛ばされるのか。

 ある種の覚悟すら抱き始めた僕に、その人は少し掠れた仇っぽい声で一言、ぼそりと漏らした。

「……宅配便の人、じゃない……??」

 呆然と呟いた後、跳ね上がった眉尻と目尻が引き下がる。
 白い頬がみるみる内に朱に染まっていった。
 つい先程までの威嚇じみた表情から一転、おろおろと狼狽える様――、表情の落差に、図らずも目を奪われてしまった。
 僕の食い入るような視線に彼女の頬は益々赤らみ、居心地悪そうに身を竦めていく。

 間違えて扉を開けたことに、対してか。
 気を抜き切った姿を見知らぬ他人に見られたことに、対してか。
 どちらにせよ、羞恥に身悶え、もじもじと身じろぎすら始める姿に、思わず抱きしめたい衝動に駆られた。

(いやいや、さすがにそれはやっちゃならん!変質者認定されて警察に突き出されるわ!!)

「えっと……」

 とりあえず謝罪なり何なり、何か喋らなければ。
 喉の奥から振り絞るように言葉を発しようと―――

 バタン!!

 唐突に、僕の鼻先擦れ擦れで乱暴に扉が閉められた。
 今の今まで僕の視界は彼女の姿だけが映り、音も景色もない静寂の世界が終わりを迎えてしまう。

 目の前には年季の入ったトタン壁と、壁と同じく塗装がところどころ剥げ落ちた白い扉。
 電球が切れかかっているらしい、ポカポカと点滅しながら頭上を照らす照明器具に、黒い羽虫達が集まっている。

「お前さぁ、何間違えてんだよ」
「うるせー。まさかお前のお隣さんも鈴木だなんて知らねーし」

 彼女の部屋と入れ替わるように開かれた、右隣の部屋の扉からあいつ――、ニヤニヤと含み笑いを漏らす鈴木に腹を立てる一方で心臓はまだ痛いくらいに早鐘を打っていた。
『鈴木さん』の恥ずかしがる姿が脳裏に浮かんでは消えを何度となく繰り返され、浮かぶ度に僕の頬が、胸が、カーッと熱を帯び始める。

「あ、そういえばさぁ」
「何だよ」
「鈴木さん、二十歳のフリーターで特定の男はいなさそうだぜ??」
「……あっそ。それより早く部屋入れてくれよな」

 まだニヤニヤとほくそ笑んでる鈴木の脳天を軽く小突く。
 いって!と大袈裟に叫ぶのを無視し、未練がましく隣の扉を横目で盗み見る。
 もう一度だけ開かないかな。
 限りなくゼロに近い可能性だと分かっているのに。
 期待を捨てきれない、馬鹿な自分自身がそこにいた。
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