花びらを抱く
花びらを抱く
更新日: 2023/06/02 21:46恋愛
本編
あなたにはじめて会ったのは、白梅香る二月の頃。はらはらと舞い散る雪花の下で、寒空に咲く梅の木を見上げていた。
お世辞にも人目を引くような外見ではなかった。野暮ったく伸びた前髪の奥、分厚い眼鏡に隠された瞳は常に気怠げで、すべてを諦めているような虚無感さえ覚えるほどだ。
体はそこにあるのに、心がふわふわとさまよっていて定まらない。たゆたう心は北風に攫われて、舞い上がる花びらのように飛び立ってしまいそうだと思った。
思えばあれが、わたしの恋のはじまりだったのだろう。
薄れゆくにはまだ早いあなたとの記憶はしあわせに満ちていて、目を閉じれば瞼の裏に優しいあなたの笑顔がよみがえる。
少し長めに伸ばした前髪は、幼い頃に怪我をして額に残った傷を隠すため。
笑う時に口元を覆うのは、えくぼが子供っぽく見えるからだと頬を膨らませてそう言った。
あなたはよく喋る人だった。
そして、本当はよく笑う人だった。
はじめて見た時に感じた無気力な瞳には「今」を楽しむ光が戻り、あなたは今日を生きることに意味を見出していたように思う。青空に舞う桜の花びらを見て美しいと。少し焦げてしまったわたしの手作りのクッキーを食べておいしいと。そう感じることが愛おしいのだと、心を揺さぶる感情を余すことなく受け止めて「あなた自身」の一部にしようと必死だった。
ずっとモノクロだった世界に色を落としたのがわたしであると、そうはにかみながら告げたあなたは、あの夜まるで許しを請うように触れるだけのキスをした。
離れていくぬくもりがせつなくて、今度はわたしからキスをした。さっきのままごとみたいな触れあいなんかじゃなく、少しだけあなたに踏み込んだ深いくちづけ。逃げるあなたを追いかけて、絡め取って引き寄せる。それが合図になった。
情欲とは無縁にも思えるほどに、あなたの笑顔はやわらかく穏やかだ。けれどもその奥に隠された男の顔が垣間見えるたびに、わたしの奥はよろこびの熱でぞくぞくと震え上がっていく。
キスに濡れたくちびるを、あなたの吐息が掠めていく。泣くのをこらえるように声を殺して、眉を寄せる。眼鏡を外したあなたの瞳は煽情的に揺れていて、その瞳に映るのがわたしであることに、ただただ幸せを感じた。
いとおしくて。いとおしくて。
もっと触れて欲しくて、あなたの首にしがみついた。
男にしては細くしなやかな指は穢れを知らぬほどに美しく、けれどもわたしの肌を這う時だけは罪を纏うかのように艶めかしい。そのどこか背徳的な指先はあなたの感触を失ってもなお、わたしの熱をこうも簡単に呼び覚ましてしまう。
わたしの胸に。首筋に。
脇腹を滑って、太腿に。
足の甲まで触れたくちびるが残したのは、ひとりでは決して咲かない夜の花。
あなたの汗を、わたしの涙を吸い上げて、白い肌にはらり、はらりと咲いていく。
狂うほどに咲き乱れる赤い花びらを、一枚一枚ていねいに剥がして、瓶詰めにしておけたらどんなにいいだろう。
さみしい夜には、あなたを思って。
気持ちの整理ができるまで、あなたのぬくもりを肌に残しておきたいのだと。そう、未練がましく過去に縋るわたしを、あなたはきっと知ることはないのだろう。
あなたはいってしまった。
わたしの心に消えることのない優しい思い出を、溢れるほどに残して。
ひとりで先にいってしまった。
それがどれほどわたしを慰めて、どれほどわたしを苦しめるのか知らないまま。
あなたがわたしの肌に残した最後の花びらが、ぬくもりのひとかけらを残して消えようとしている。わたしの中から、あなたが消えようとしている。それがひどく悲しくて。
引き止めたくて、強く、強く、吸い付いた。そうやって、もう何度もわたしは死にかけた花びらを上書きしている。
これは呪いだ。
まるで麻薬のように、あまやかな夢を見る呪い。
わたしを前に進ませてくれない、あなたが残した最後の痕。
惨めで、愚かで、わがままな呪い。
わたしの体からあなたの花びらが消える時、わたしはようやく未来を向いて歩いていけるのだろう。
だからもう少し。
あと少しだけ、わたしの肌をあなたの記憶で彩って欲しいのだ。
0お世辞にも人目を引くような外見ではなかった。野暮ったく伸びた前髪の奥、分厚い眼鏡に隠された瞳は常に気怠げで、すべてを諦めているような虚無感さえ覚えるほどだ。
体はそこにあるのに、心がふわふわとさまよっていて定まらない。たゆたう心は北風に攫われて、舞い上がる花びらのように飛び立ってしまいそうだと思った。
思えばあれが、わたしの恋のはじまりだったのだろう。
薄れゆくにはまだ早いあなたとの記憶はしあわせに満ちていて、目を閉じれば瞼の裏に優しいあなたの笑顔がよみがえる。
少し長めに伸ばした前髪は、幼い頃に怪我をして額に残った傷を隠すため。
笑う時に口元を覆うのは、えくぼが子供っぽく見えるからだと頬を膨らませてそう言った。
あなたはよく喋る人だった。
そして、本当はよく笑う人だった。
はじめて見た時に感じた無気力な瞳には「今」を楽しむ光が戻り、あなたは今日を生きることに意味を見出していたように思う。青空に舞う桜の花びらを見て美しいと。少し焦げてしまったわたしの手作りのクッキーを食べておいしいと。そう感じることが愛おしいのだと、心を揺さぶる感情を余すことなく受け止めて「あなた自身」の一部にしようと必死だった。
ずっとモノクロだった世界に色を落としたのがわたしであると、そうはにかみながら告げたあなたは、あの夜まるで許しを請うように触れるだけのキスをした。
離れていくぬくもりがせつなくて、今度はわたしからキスをした。さっきのままごとみたいな触れあいなんかじゃなく、少しだけあなたに踏み込んだ深いくちづけ。逃げるあなたを追いかけて、絡め取って引き寄せる。それが合図になった。
情欲とは無縁にも思えるほどに、あなたの笑顔はやわらかく穏やかだ。けれどもその奥に隠された男の顔が垣間見えるたびに、わたしの奥はよろこびの熱でぞくぞくと震え上がっていく。
キスに濡れたくちびるを、あなたの吐息が掠めていく。泣くのをこらえるように声を殺して、眉を寄せる。眼鏡を外したあなたの瞳は煽情的に揺れていて、その瞳に映るのがわたしであることに、ただただ幸せを感じた。
いとおしくて。いとおしくて。
もっと触れて欲しくて、あなたの首にしがみついた。
男にしては細くしなやかな指は穢れを知らぬほどに美しく、けれどもわたしの肌を這う時だけは罪を纏うかのように艶めかしい。そのどこか背徳的な指先はあなたの感触を失ってもなお、わたしの熱をこうも簡単に呼び覚ましてしまう。
わたしの胸に。首筋に。
脇腹を滑って、太腿に。
足の甲まで触れたくちびるが残したのは、ひとりでは決して咲かない夜の花。
あなたの汗を、わたしの涙を吸い上げて、白い肌にはらり、はらりと咲いていく。
狂うほどに咲き乱れる赤い花びらを、一枚一枚ていねいに剥がして、瓶詰めにしておけたらどんなにいいだろう。
さみしい夜には、あなたを思って。
気持ちの整理ができるまで、あなたのぬくもりを肌に残しておきたいのだと。そう、未練がましく過去に縋るわたしを、あなたはきっと知ることはないのだろう。
あなたはいってしまった。
わたしの心に消えることのない優しい思い出を、溢れるほどに残して。
ひとりで先にいってしまった。
それがどれほどわたしを慰めて、どれほどわたしを苦しめるのか知らないまま。
あなたがわたしの肌に残した最後の花びらが、ぬくもりのひとかけらを残して消えようとしている。わたしの中から、あなたが消えようとしている。それがひどく悲しくて。
引き止めたくて、強く、強く、吸い付いた。そうやって、もう何度もわたしは死にかけた花びらを上書きしている。
これは呪いだ。
まるで麻薬のように、あまやかな夢を見る呪い。
わたしを前に進ませてくれない、あなたが残した最後の痕。
惨めで、愚かで、わがままな呪い。
わたしの体からあなたの花びらが消える時、わたしはようやく未来を向いて歩いていけるのだろう。
だからもう少し。
あと少しだけ、わたしの肌をあなたの記憶で彩って欲しいのだ。