ある研究者の手記

作家: 紫月音湖(旧HN/月音)
作家(かな): しづき ねこ

ある研究者の手記

更新日: 2023/06/02 21:46
ホラー

本編


『それは突然やってきた。


 いつもと同じ朝だった。朝食はトーストとブラックコーヒーで簡単に済ませ、車を運転して職場へと向かう。
 近くのバス停にはその日も多くの学生が並んでおり、私が通勤に使う道もいつもの交差点で軽い渋滞が起きていた。

 いつもと同じ、朝の通勤ラッシュの光景だ。
 違うことと言えば、その日は具合が悪そうな人をよく見かけた気がする。

 バス停に並ぶ学生の一人が、蹲っていた。隣の女子高生は友人なのだろう。座り込んでしまった子の背中を、心配そうにさすっている。
 彼女たちの並ぶ列の先頭に中年層のサラリーマンがいたが、彼の顔も少し青ざめており、嘔吐しそうなのか口元を手で押さえていた。
 ちょうど赤信号で止まった場所がバス停の前だった事もあり、私は研究員という職業柄つい観察するように二人の状態を確認したのだ。

 バス停には七人の男女が並んでいた。
 そのうちの二人は座り込んだまま動けないでいる女子高生と、口元を押さえている青ざめた顔のサラリーマン。気分の悪い二人を心配して、残りの五人が声をかけたり顔をのぞき込んだりしている。その全員が、皆一様に同じ仕草をしていた。

 季節は夏。記録的な猛暑の中、早朝であろうと日が昇れば気温はぐっと高くなる。
 そんな中、バス停に並ぶ七人全てが、半袖で剥き出しになった両腕をしきりにさすっていた。


 今思えば、あれは始まりの合図だったのだろう。


 奇妙なバス停の光景から数日後、それは爆発的に拡がった。
 人体に花が咲くという奇病が、世界規模で発生したのだ。
 始まりがどこだったのかは定かではない。桜が春に見頃を迎えるように、それは満開の時期を迎えて一斉に花開く。それ故に、世界中で一気に患者数が膨れ上がった。

 原因は「種」だ。
 花なのだから当たり前なのだが、問題はこの「種」がどこから来て、どうやって人体に根付くのかが全く解明されなかった。

 種が根付き、発芽するまでは皮下組織で行われる。毛根のイメージだ。この間に種は急成長していると考えられ、人体から多くのエネルギーを吸収する。血液が一番栄養吸収に適しているのか、この段階に入った者は急激な寒気に襲われる事が多い。私がバス停で見た彼らが、まさにそれだ。

 皮膚を破って茎を伸ばしてからのスピードは思った以上に早い。人によっては数時間で開花する者もいる。咲く花は実に様々で、それらは一様に見たことのない美しい花々だった。


 しかし、注意しなければならない。


 いかに花が美しかろうと、これは病なのだ。
 病を起こすものが「未知の種」である事以外、まったく謎に包まれた致死率百パーセントの不治の病。


 そう――花が開花すると、死ぬのだ。


 特効薬もないまま、世界中で死出へ導く花が咲き乱れている。

 製薬会社の研究員である私は他の同僚らと共に、この病に効く薬を必死になって探し続けた。しかし僅かな光明すらなく、その間にも世界中で死者の数が増え続けていった。

 ある者は死を受け入れて花と共に散った。
 ある者は死に抗い、花を引き抜いたはずが自らの血管までもを引き抜いて死んだ。

 いつ発病するか分からない中での研究は精神を蝕み、病に罹る前に倒れていく同僚も少なくなかった。その中でも、私は比較的頑張った方だと思う。


 私に根付いた種は、腕から、背中から、右目から発芽した。


 皮膚を破って芽を出した後も、他と比べて成長のスピードは遅いようだ。徹夜続きでろくに食事も取れていない体では十分な栄養が足りていないのか、あるいは研究の過程で飲んだ試薬のどれかが効果を発しているのかは分からない。
 ただそれも一時的なものであることは間違いなく、私は自分の死期が近いことを感じている。

 この建物内はもう、屍に咲く花で埋め尽くされている。きっと外も、そして世界も似たような光景が広がっているのだろう。遠くない未来、世界は花で満たされる。


 この手紙を読んでいる、君。
 君の見ている世界は、まだ私たちの花が咲いているだろうか。あるいはもう全て枯れ果て、新たな宿主を捜して種をばら撒いているのだろうか。


 ――あぁ、今、私の腕に花が咲いた。
 それはとても鮮やかで美……い、…………色の……』

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