かつての世界地図

作家: Kyoshi Tokitsu
作家(かな):

かつての世界地図

更新日: 2023/06/02 21:46
その他

本編


 はるか昔、世界はもっと美しかった。幸せが幸せと定義され、苦悩は苦悩として定義されていたのである。この一見して当然のように思われる道理が正確に世界を支配していた。
 しかし、いつの頃からか、世界は酷く歪になってしまった。幸せは不実と書き換えられ、苦悩は美徳と改ざんされてしまった。人々は幸福を遠ざけ、それと自らの間には山のように不幸や苦悩が敷かれていると無抵抗に受け入れ、果ては不幸こそが人生を幸福たらしめると盲信した。やがてそれは人々が人生を謳歌するための必修科目として定められ、その意味で誠実な人生をおくるよう、再設計された。
 今ではこれに従わぬは不適合者として烙印を押され、迫害された。そうして世界はどんどん不幸に飲み込まれていった。しかし、人々はこれを否定しない。不幸こそが己を確固たるものにする証左であり、それは世に生きるための市民権であった。
 やがて世界はその名前すら忘れ去られた。人々は世界をかつての名前で呼ばず、ゲンジツと呼んだ。
 ゲンジツは残酷
 ゲンジツは甘くない
 これらの言葉はゲンジツと言う幻影を表現する上では正確である。より正しく述べるなら、これらの格言に適合するようにゲンジツが定義されたと言える。
 人々は皆、ゲンジツに最適化し、その上で成功者となるべく、次から次へ不幸を生み出し、幸せになっていった。それが現実の規格であり、かつての世界はキレイゴトであった。
 それに抗う人々もいた。即ち、かつての世界の理に生き、己を守った者たちである。その者たちの一部は少なからず称賛された。人々は彼らを天才と呼び、ゲンジツに生きる多くの人々よりも優れた人間であると評価した。これは全く的外れな評価でもなかった。天才、と呼ばれた人々はただ一点においてゲンジツの人々とは異なっていた。つまり、世界の理に生き、己を守ったという一点において。ゲンジツの人々はかつての理を受け入れぬ一方で、深層ではその理のもとに生きることを望んでいた。しかし、彼らにとっての世界、ゲンジツは不幸と苦悩に満ちていなければならなかった。真の世界に生きることは不実であった。ゆえに己を生き続けた者には人並み外れた才能があり、苦悩と不幸によって自我を保たねばならない自身とはまるで異なった別種の人間として認識することを選んだのであった。
 己を生きたとてゲンジツから蔑まれた者もあった。彼らは天才、と呼ばれた者たちとなんら変わらなかった。しかし、それでも彼らは苦悩礼賛のゲンジツが幸福な世界に向ける憎悪を一身に受けなければならなかった。彼らは変人、夢想家と呼ばれた。何がこの差を生み出した? マジョリティの幻影。ゲンジツは意思を持たぬ者のねぐらであるゆえ、常に多数に従った。のみならず、そこでは、多数の承認を得ぬ世界人が格好の餌食であった。その世界人たちは彼らの前では絶対的に劣った、未成熟な、身の程知らずの存在であった。ゲンジツはそんな人間たちを矯正し、あの憎むべき苦悩礼賛の民へと教育するのであった。劣等種を導くのが我々だ、などというおぞましい大義のもとに粛清が行なわれた。この正義の炎こそがゲンジツの動力炉を狂ったように稼働させ続けていた。動力炉はとうに熱暴走し、その熱が周囲の空間に真夏の陽炎のような揺らめきを与え、ゲンジツに生きる人々はそこに歪み、縮小された自身の姿を見た。
 ゲンジツにおいては多数の導き出した結果のみが正しいのである。多数が良いと言うならばそれは普遍的な真理。そうでないならば、それは堕落の戯言。仮に一度は戯言と切り捨てられたとて、多数が不意にそちらに向かって、良い、と言い直せばそれは革命的な新しい価値観、と言う伝染病的呼称で真理へと変換された。
 私の綴るこの文字列とて、戯言に過ぎない。しかし、これが世界人にとってのささやかな踏み絵にはならないだろうか。友よ。世界人よ。絶望するな。いつかゲンジツが我々の本来在った世界へと還元される日が来ないとも限らないのだから。
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