チューベローズとアップルパイ
チューベローズとアップルパイ
更新日: 2023/06/02 21:46恋愛
本編
「龍臣さん、お茶にしましょう? アップルパイが上手に焼けたのよ」
焼きたてのアップルパイの香りよりも先に、菓子とは違う濃厚な甘い匂いが鼻腔を突いた。読んでいた本を閉じたタイミングで、背後から覗き込むように影が落ちる。
より一層強くなる花の香りに思い出されるのは、激しく甘い昨夜のひととき。清楚な彼女には少しだけ不釣り合いな香水は、二人だけの時に香る秘密の合図だ。
椅子に腰掛けたまま振り返れば、その視線を遮るように白い腕が肩を追い越して私の前に伸びていく。肩に触れた膨らみを押し付けて、艶やかな黒髪を頬に擦り付けて、彼女はたっぷりと時間をかけて私の手から本を奪い取っていった。
「二人きりの時くらい、本を読むのはおやめになって」
「そうは言ってもね、君がアップルパイを焼いている間、私は手持ち無沙汰なんだよ」
「一緒に作って下さってもいいんですよ」
良く晴れた秋空の下、やわらかな木漏れ日に揺れるテラス席。白いテーブルに用意されたティーカップの中には、琥珀色の海を泳ぐ薔薇の花びらが一枚、心もとなく揺れている。
そよ風に乗って香るのは庭に咲く薔薇の香り。その気高く上品な香りに紛れ込む、彼女のチューベローズの香水。夜に強く香を放つ白い花は、その清楚な見た目とは裏腹に官能的で危険な香りだ。
まさに彼女の香りだった。
「龍臣さん? どうかしました?」
向かい合って座る彼女が、わずかに首を傾げる。その仕草が年相応に幼く見えるものだから、私は暫し困惑したように彼女を見つめてしまった。
艶やかな長い黒髪と、きめの細かい滑らかな白い肌。大きな瞳は黒曜石の輝きで、まるで完成された人形のように美しい肢体。あどけなさが残る笑顔は愛らしく、けれど唇だけは男を誘う魅惑の赤に濡れている。
「いいや。君があんまり綺麗だから」
そう言うと、妖艶な雰囲気を纏っていた彼女が、恥じらうように笑う。幼さの残る笑顔も、男を誘う微笑も。どちらも君で、そしてそのすべてを私は深く愛していた。
さくり。
さくり、と。切り分けられるアップルパイ。中に詰まっているのは、私たちの罪の果実。純真無垢な君の白を穢して、飴色に染まる。
「最後の晩餐、にはまだ早い時間ですけど……今日が、最後ですね」
見つめ合ったまま、私たちはアップルパイを一口食べる。まだ残るぬくもりは人肌のようで、舌の上で転がせばやわらかな果実が甘酸っぱい余韻を残して消えていく。そのひとかけらの感触にさえ彼女の肌を思い出すのだから、私も大概未練がましい男なのだろう。
「彼は、君を幸せにしてくれるよ」
「そう、ですね。……でも今日が終わるまで、私はまだ龍臣さん……と呼びますわ。いいでしょう?」
私が断らないことを知って、聞いてくる。女とは、おそろしい生き物だ。おそろしくて、美しく、そして溺れるほどに艶めかしい。
抗えない。抗うつもりなど、毛頭ない。
これが最後の夜になるから。私は罪と知りながら、彼女を抱く。
彼女が焼いたアップルパイ。罪深き秘密の林檎を包み込んで、誰にも知られないように二人だけで食べ尽くす。
甘くて苦い罪の味。愛しくて切ない、罰の味。私たちにぴったりだ。
「龍臣さん」
名前を呼ぶ赤い唇を、噛み付くように塞ぐ。私の痕を残したいと願いながら、けれども白い肌に少しの痕跡も残さぬように。狂おしく、ていねいに、激しく、やさしく。
絡まる吐息は、甘酸っぱい林檎の匂いがした。
小夜子――。
妹は、明日結婚する。
0焼きたてのアップルパイの香りよりも先に、菓子とは違う濃厚な甘い匂いが鼻腔を突いた。読んでいた本を閉じたタイミングで、背後から覗き込むように影が落ちる。
より一層強くなる花の香りに思い出されるのは、激しく甘い昨夜のひととき。清楚な彼女には少しだけ不釣り合いな香水は、二人だけの時に香る秘密の合図だ。
椅子に腰掛けたまま振り返れば、その視線を遮るように白い腕が肩を追い越して私の前に伸びていく。肩に触れた膨らみを押し付けて、艶やかな黒髪を頬に擦り付けて、彼女はたっぷりと時間をかけて私の手から本を奪い取っていった。
「二人きりの時くらい、本を読むのはおやめになって」
「そうは言ってもね、君がアップルパイを焼いている間、私は手持ち無沙汰なんだよ」
「一緒に作って下さってもいいんですよ」
良く晴れた秋空の下、やわらかな木漏れ日に揺れるテラス席。白いテーブルに用意されたティーカップの中には、琥珀色の海を泳ぐ薔薇の花びらが一枚、心もとなく揺れている。
そよ風に乗って香るのは庭に咲く薔薇の香り。その気高く上品な香りに紛れ込む、彼女のチューベローズの香水。夜に強く香を放つ白い花は、その清楚な見た目とは裏腹に官能的で危険な香りだ。
まさに彼女の香りだった。
「龍臣さん? どうかしました?」
向かい合って座る彼女が、わずかに首を傾げる。その仕草が年相応に幼く見えるものだから、私は暫し困惑したように彼女を見つめてしまった。
艶やかな長い黒髪と、きめの細かい滑らかな白い肌。大きな瞳は黒曜石の輝きで、まるで完成された人形のように美しい肢体。あどけなさが残る笑顔は愛らしく、けれど唇だけは男を誘う魅惑の赤に濡れている。
「いいや。君があんまり綺麗だから」
そう言うと、妖艶な雰囲気を纏っていた彼女が、恥じらうように笑う。幼さの残る笑顔も、男を誘う微笑も。どちらも君で、そしてそのすべてを私は深く愛していた。
さくり。
さくり、と。切り分けられるアップルパイ。中に詰まっているのは、私たちの罪の果実。純真無垢な君の白を穢して、飴色に染まる。
「最後の晩餐、にはまだ早い時間ですけど……今日が、最後ですね」
見つめ合ったまま、私たちはアップルパイを一口食べる。まだ残るぬくもりは人肌のようで、舌の上で転がせばやわらかな果実が甘酸っぱい余韻を残して消えていく。そのひとかけらの感触にさえ彼女の肌を思い出すのだから、私も大概未練がましい男なのだろう。
「彼は、君を幸せにしてくれるよ」
「そう、ですね。……でも今日が終わるまで、私はまだ龍臣さん……と呼びますわ。いいでしょう?」
私が断らないことを知って、聞いてくる。女とは、おそろしい生き物だ。おそろしくて、美しく、そして溺れるほどに艶めかしい。
抗えない。抗うつもりなど、毛頭ない。
これが最後の夜になるから。私は罪と知りながら、彼女を抱く。
彼女が焼いたアップルパイ。罪深き秘密の林檎を包み込んで、誰にも知られないように二人だけで食べ尽くす。
甘くて苦い罪の味。愛しくて切ない、罰の味。私たちにぴったりだ。
「龍臣さん」
名前を呼ぶ赤い唇を、噛み付くように塞ぐ。私の痕を残したいと願いながら、けれども白い肌に少しの痕跡も残さぬように。狂おしく、ていねいに、激しく、やさしく。
絡まる吐息は、甘酸っぱい林檎の匂いがした。
小夜子――。
妹は、明日結婚する。