vanilla
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更新日: 2023/06/02 21:46恋愛
本編
前に付き合っていた女は、やれ誕生日だの記念日だの、およそイベント日には必ず何かを買ってやれなければ気が済まない奴だった。
けど、小雪はその点に関してはとても楽な相手で、安月給な俺にとってもいろいろと都合が良かった。
アレルギー持ちなのでメイクもアクセサリーもNG。ブランドバッグは「好みじゃないから」といって断わられた。ファッションも最低限の流行は追うが、それ以上追求しようとはしない。
じゃぁ、どこか遊びに行こうかと思っても、小雪の仕事が忙しいことが多くて、なかなか都合が合わない。
その辺で気がひけるのだろう、俺があまり連絡を寄越さなくても、小雪は文句を言わない。
俺が浮気でもしたらどうすんのと言ってやると「好きにすれば?」だなんて平気で答えやがる。年上の余裕ってやつ?
とにかく、全てにおいてがそんな調子のサバサバとした女で、俺としては案外気楽でいいなどと思っていたわけだ。
少なくとも、最初のうちは。
そんな小雪が唯一熱をあげているのが、香水だった。
「香水《それ》は平気なのかよ。肌弱いくせに」
何となく気になって聞いてみれば、
「直接肌に付けなくても楽しめるからいいの」
そう言って、小雪は俺に、ハンカチや服、髪の先に少し付けたりするのだと教えてくれた。
女ってのはまぁ、いろんな楽しみ方をよく思い付くもんだと感心する。
そうやって、ポーチの中の化粧品よりも遥かに多いボトルを、コレクションボックスの中に納めては、今日はこれ明日はあれと、とっかえひっかえ楽しんでいるのを横目に眺めていたそんなある日。
新しいのを買ったんだと嬉しそうに話しているあいつの声を、寝ぼけた頭で夢半分にきいていたら、
「どう?」
なんて、鼻先に突きつけてきやがった。
だけど残念なことに、その匂いは俺の好みとは言い難かった。
寝起きのところにキツいアルコールのツンとした匂いをかがされた俺は、ムっとしてつい言ってしまった。
「トイレの芳香剤みたい」
そりゃ、デリカシーがないと自分でも思うけど。だからって、思いきりひっ叩かれるほどのことか?
どっちもあまりこだわらないから、お互いすぐ何でもなかったかのようにケロリとしていたけど、本当はそうじゃなかったというのを、俺は後になって気付かされた。
久しぶりに休みがとれたと携帯にメールがあった、その翌日。
いつものようにコンビニで買ったケーキ(俺が食べたかった新商品だ)を手土産代わりに部屋へ上がった時、俺はふと、コレクションボックスの片隅にある不自然な空白をみつけてしまった。
一瞬怪訝な表情をする俺に、あいつは気まずそうに笑って言った。
「こぼしちゃったから、捨てたの」
嘘ばっかり。
ボトルの形が可愛いからって、使い切った香水ビンも大切に飾っておくくせに。
どれを捨てたのかは聞くまでもなかった。あの芳香剤もどきのやつに決まってる。
翌朝。
俺は小雪に内緒で部屋を抜け出すと、近所のショッピングモールにかけこんだ。
よほど疲れていたのか、あいつは起き出す気配がなかった。多分、昼まで寝ているはず。今の俺にとっては、その方が都合がいい。
「いらっしゃいませ~」
店番をしていた店員が、眠たげな目と声で俺を出迎える。
「何かお探しですかぁ~?」
一人で探せそうにないから腹をくくって事情を説明して、店員に一緒に探してもらおうと思ったんだけど。
「そりゃ怒りますよぉ。むしろ怒って当たり前」
「ですよねー」
舌足らずな彼女の言葉に、俺は苦笑いを返すしかなかった。
けれど、彼女はそれ以上突っ込むようなことはしなかった。それよりも、俺の言う探し物に興味を持ってくれたらしい。
「ボトルの形とかは覚えてないんですか?」
俺が首を振ると、店員は大きな溜息をつく。
「じゃぁ、香りだけで探すしかないですねぇ……」
言って、彼女は手近な棚に手を伸ばした。
「最近の新作だと、このへんなんですけど~」
直接嗅ぐと鼻がやられてしまうから、こういう場合は一度ムエットとかいう細く切った紙に吹き付けてから嗅ぐものだと教えてもらったのだが、いくら嗅いでも一向にそれらしきものが見つからない。
あれでもないこれでもないと鼻を頼りに探していたが、そのうち、どれも同じ匂いのような気がしてきて、わけがわからなくなってしまった。
「これだけ探しても見付からないと、ウチじゃ扱っていない限定版かもしれませんねぇ……」
最近は、一つ売れるとすぐそのブランドのマイナーチェンジ版ともいうシーズンごとの限定版が出るらしく、当然、入れ替わりも早い。
限定だから場合によっては元からの品数も少なく、次の年にはすぐ入手困難なレアものになるのも少なくないらしい。
大量の匂いでくらくらする頭をかかえながら、俺も大きな溜息を返す。
「わかりました……すんません、また出直してきます」
店員の同情たっぷりの笑顔に見送られ、俺はすごすごと退散する。
気のせいか身体中に香水の匂いがしみついたような気がして、何だか妙な気分だ。こんな状態で部屋に戻ったら、小雪に何だと思われるだろう。
好きでもない匂いにまとわりつかれ、目的も果たせず帰るのは癪だったから、俺は一旦帰りかけた足を止め、同じ店鋪内にある小さなカフェテリアに入ることにした。
コーヒーの匂いが漂うブースの片隅で、気持ちを落ち着けて考える。
俺は、本当はどうしたかったのだろう?
独占したいわけじゃない。
独占されたいわけじゃない。
だけど。
俺もいつか、あの香水みたいに捨てられてしまうんだろうか。
嫌な思い出を切り捨てるように、あっさりと、いとも簡単に。
後腐れなくて気楽だろうと思っていたはずなのに、だけど却ってそれが無性に悔しい気がして仕方がない。
俺は、小雪にとって何なのだろう。
俺にとって、小雪は一体何なのだろう。
そう考えると、いてもたってもいられなくなってしまう。
今日は一旦諦めて帰ろうか、それとも違う店に行ってもう少し探してみようかか。
カップの中に映る自分と睨めっこをしながら考えていたときだった。
「……そうだ!」
ふと、ある考えが俺の頭の中に閃いた。
まだ多少熱いコーヒーを無理に流し込んで、急いで先のショップに戻る。
俺にしては珍しくガッツのあることだと自分でも呆れてしょうがない。でも、これだけはどうしても譲れない。譲りたくない。
「いらっしゃいませ~……って、あら?」
さっきの店員が、戻ってきた俺をみて眠たそうな目を見開く。
「お探しのもの、思い出せました~?」
「いや、思い出せてないんですけど、ちょっと路線変更することにしました」
「?」
小首を傾げる店員に、俺は棚に並ぶ中から一つを指差して、言った。
「これ、もう一回嗅がせてもらえます?」
「いいですけど……でもこれ、お探しの系統とは違いますよ~?」
言いながらも店員は俺の指差した青い小さなボトルを手に取ると、慣れた手付きでムエットに吹き付け、はたはたと扇いでから俺に寄越してくれた。
すっと消えるような清涼感の奥から、控えめな甘い香りが顔を覗かせる。
そうだ。これだ。この匂いは。
「バニラですね~」
それくらい、言われなくても俺にもわかる。
すでに手渡される前から匂ってきた涼しいこの匂いは、ガラスの器に盛り付けられたアイスクリームと、その隣にちょこんと乗っかっているウェハースを連想させた。
甘ったるいのやきつい香りは苦手だけど、この匂いはいいな、と俺は思った。
小雪。
甘くて冷たい、氷のお菓子。
食べどきを逃してしまったら、それっきり。
独占欲とは少し違うと思う。
この関係も、いつまで続くかわからない。
でも、一つくらい、俺の好みのモノを持たせたっていいじゃないか。
俺の痕跡すら残すことが出来ないでいるのは、それはそれで何か悔しい気がしたんだ。
「決めた。これにします」
さんざん探させたのに申し訳ないとは思ったけど、店員は嫌そうな顔もせず、丁寧にラッピングまでしてくれた。
「がんばってね~」
すっかり打ち解けた彼女の笑顔に見送られ、小さな紙袋を抱えて店を出る。
誕生日でもなく、記念日でもない普通の日にこんなものを渡したら、あいつは一体どんな顔をするだろうな?
ー終ー
0けど、小雪はその点に関してはとても楽な相手で、安月給な俺にとってもいろいろと都合が良かった。
アレルギー持ちなのでメイクもアクセサリーもNG。ブランドバッグは「好みじゃないから」といって断わられた。ファッションも最低限の流行は追うが、それ以上追求しようとはしない。
じゃぁ、どこか遊びに行こうかと思っても、小雪の仕事が忙しいことが多くて、なかなか都合が合わない。
その辺で気がひけるのだろう、俺があまり連絡を寄越さなくても、小雪は文句を言わない。
俺が浮気でもしたらどうすんのと言ってやると「好きにすれば?」だなんて平気で答えやがる。年上の余裕ってやつ?
とにかく、全てにおいてがそんな調子のサバサバとした女で、俺としては案外気楽でいいなどと思っていたわけだ。
少なくとも、最初のうちは。
そんな小雪が唯一熱をあげているのが、香水だった。
「香水《それ》は平気なのかよ。肌弱いくせに」
何となく気になって聞いてみれば、
「直接肌に付けなくても楽しめるからいいの」
そう言って、小雪は俺に、ハンカチや服、髪の先に少し付けたりするのだと教えてくれた。
女ってのはまぁ、いろんな楽しみ方をよく思い付くもんだと感心する。
そうやって、ポーチの中の化粧品よりも遥かに多いボトルを、コレクションボックスの中に納めては、今日はこれ明日はあれと、とっかえひっかえ楽しんでいるのを横目に眺めていたそんなある日。
新しいのを買ったんだと嬉しそうに話しているあいつの声を、寝ぼけた頭で夢半分にきいていたら、
「どう?」
なんて、鼻先に突きつけてきやがった。
だけど残念なことに、その匂いは俺の好みとは言い難かった。
寝起きのところにキツいアルコールのツンとした匂いをかがされた俺は、ムっとしてつい言ってしまった。
「トイレの芳香剤みたい」
そりゃ、デリカシーがないと自分でも思うけど。だからって、思いきりひっ叩かれるほどのことか?
どっちもあまりこだわらないから、お互いすぐ何でもなかったかのようにケロリとしていたけど、本当はそうじゃなかったというのを、俺は後になって気付かされた。
久しぶりに休みがとれたと携帯にメールがあった、その翌日。
いつものようにコンビニで買ったケーキ(俺が食べたかった新商品だ)を手土産代わりに部屋へ上がった時、俺はふと、コレクションボックスの片隅にある不自然な空白をみつけてしまった。
一瞬怪訝な表情をする俺に、あいつは気まずそうに笑って言った。
「こぼしちゃったから、捨てたの」
嘘ばっかり。
ボトルの形が可愛いからって、使い切った香水ビンも大切に飾っておくくせに。
どれを捨てたのかは聞くまでもなかった。あの芳香剤もどきのやつに決まってる。
翌朝。
俺は小雪に内緒で部屋を抜け出すと、近所のショッピングモールにかけこんだ。
よほど疲れていたのか、あいつは起き出す気配がなかった。多分、昼まで寝ているはず。今の俺にとっては、その方が都合がいい。
「いらっしゃいませ~」
店番をしていた店員が、眠たげな目と声で俺を出迎える。
「何かお探しですかぁ~?」
一人で探せそうにないから腹をくくって事情を説明して、店員に一緒に探してもらおうと思ったんだけど。
「そりゃ怒りますよぉ。むしろ怒って当たり前」
「ですよねー」
舌足らずな彼女の言葉に、俺は苦笑いを返すしかなかった。
けれど、彼女はそれ以上突っ込むようなことはしなかった。それよりも、俺の言う探し物に興味を持ってくれたらしい。
「ボトルの形とかは覚えてないんですか?」
俺が首を振ると、店員は大きな溜息をつく。
「じゃぁ、香りだけで探すしかないですねぇ……」
言って、彼女は手近な棚に手を伸ばした。
「最近の新作だと、このへんなんですけど~」
直接嗅ぐと鼻がやられてしまうから、こういう場合は一度ムエットとかいう細く切った紙に吹き付けてから嗅ぐものだと教えてもらったのだが、いくら嗅いでも一向にそれらしきものが見つからない。
あれでもないこれでもないと鼻を頼りに探していたが、そのうち、どれも同じ匂いのような気がしてきて、わけがわからなくなってしまった。
「これだけ探しても見付からないと、ウチじゃ扱っていない限定版かもしれませんねぇ……」
最近は、一つ売れるとすぐそのブランドのマイナーチェンジ版ともいうシーズンごとの限定版が出るらしく、当然、入れ替わりも早い。
限定だから場合によっては元からの品数も少なく、次の年にはすぐ入手困難なレアものになるのも少なくないらしい。
大量の匂いでくらくらする頭をかかえながら、俺も大きな溜息を返す。
「わかりました……すんません、また出直してきます」
店員の同情たっぷりの笑顔に見送られ、俺はすごすごと退散する。
気のせいか身体中に香水の匂いがしみついたような気がして、何だか妙な気分だ。こんな状態で部屋に戻ったら、小雪に何だと思われるだろう。
好きでもない匂いにまとわりつかれ、目的も果たせず帰るのは癪だったから、俺は一旦帰りかけた足を止め、同じ店鋪内にある小さなカフェテリアに入ることにした。
コーヒーの匂いが漂うブースの片隅で、気持ちを落ち着けて考える。
俺は、本当はどうしたかったのだろう?
独占したいわけじゃない。
独占されたいわけじゃない。
だけど。
俺もいつか、あの香水みたいに捨てられてしまうんだろうか。
嫌な思い出を切り捨てるように、あっさりと、いとも簡単に。
後腐れなくて気楽だろうと思っていたはずなのに、だけど却ってそれが無性に悔しい気がして仕方がない。
俺は、小雪にとって何なのだろう。
俺にとって、小雪は一体何なのだろう。
そう考えると、いてもたってもいられなくなってしまう。
今日は一旦諦めて帰ろうか、それとも違う店に行ってもう少し探してみようかか。
カップの中に映る自分と睨めっこをしながら考えていたときだった。
「……そうだ!」
ふと、ある考えが俺の頭の中に閃いた。
まだ多少熱いコーヒーを無理に流し込んで、急いで先のショップに戻る。
俺にしては珍しくガッツのあることだと自分でも呆れてしょうがない。でも、これだけはどうしても譲れない。譲りたくない。
「いらっしゃいませ~……って、あら?」
さっきの店員が、戻ってきた俺をみて眠たそうな目を見開く。
「お探しのもの、思い出せました~?」
「いや、思い出せてないんですけど、ちょっと路線変更することにしました」
「?」
小首を傾げる店員に、俺は棚に並ぶ中から一つを指差して、言った。
「これ、もう一回嗅がせてもらえます?」
「いいですけど……でもこれ、お探しの系統とは違いますよ~?」
言いながらも店員は俺の指差した青い小さなボトルを手に取ると、慣れた手付きでムエットに吹き付け、はたはたと扇いでから俺に寄越してくれた。
すっと消えるような清涼感の奥から、控えめな甘い香りが顔を覗かせる。
そうだ。これだ。この匂いは。
「バニラですね~」
それくらい、言われなくても俺にもわかる。
すでに手渡される前から匂ってきた涼しいこの匂いは、ガラスの器に盛り付けられたアイスクリームと、その隣にちょこんと乗っかっているウェハースを連想させた。
甘ったるいのやきつい香りは苦手だけど、この匂いはいいな、と俺は思った。
小雪。
甘くて冷たい、氷のお菓子。
食べどきを逃してしまったら、それっきり。
独占欲とは少し違うと思う。
この関係も、いつまで続くかわからない。
でも、一つくらい、俺の好みのモノを持たせたっていいじゃないか。
俺の痕跡すら残すことが出来ないでいるのは、それはそれで何か悔しい気がしたんだ。
「決めた。これにします」
さんざん探させたのに申し訳ないとは思ったけど、店員は嫌そうな顔もせず、丁寧にラッピングまでしてくれた。
「がんばってね~」
すっかり打ち解けた彼女の笑顔に見送られ、小さな紙袋を抱えて店を出る。
誕生日でもなく、記念日でもない普通の日にこんなものを渡したら、あいつは一体どんな顔をするだろうな?
ー終ー