正義の贄

作家: Kyoshi Tokitsu
作家(かな):

正義の贄

更新日: 2023/06/02 21:46
その他

本編



 旅人は大きな広場の中心で群衆に囲まれ、磔(はりつけ)にされた男と対峙(たいじ)していた。男は必死の形相で何かを叫んでいたものの、湧き上がる歓声に圧(お)し潰(つぶ)された声は誰に届くこともなかった。旅人は右手に鋭利に光る黒曜石(こくようせき)が幾つも埋め込まれた木剣を、左手には翡翠(ひすい)の面を携え、自由意志を奪われたかのごとく佇み、働かぬ頭脳回路を焦がしながら己がこの場所に立つに至った経緯(けいい)を他人事のように回想していた。
 旅人がこの国に足を踏み入れたのはわずか数日前のことであった。

 旅人は国境を越えた途端、たちまち警備の兵士に呼び止められ、思わぬ歓待を受けることになった。彼はその国の中枢(ちゅうすう)施設の絢爛(けんらん)豪華(ごうか)な応接室で上等の水菓子をあてがわれていた。ただ、戸惑っていた。何故、自らがここまでの歓待を受けているのか、まるで見当がつかなかった。
「やあやあ。ご挨拶が遅くなりまして申し訳ございません。おくつろぎいただけておりますかな」
 旅人は浅く腰かけていたソファから立ち上がり、声の方を振り返った。
「初めまして。この国では大臣と呼ばれている者です。この度はこの国へお立ち寄りいただき、誠にありがとうございます」
大臣と称する大柄な男はそう言うなり、握手を求めて歩み寄った。
「これはどうもご丁寧にありがとうございます。私は方々を旅している者でして――」
旅人が名を告げようとした途端、大臣がそれを制した。
「いえ、お名前は結構。仰らないように願います」
「……? 何故です?」
「それがこの国の決まりなのです。己の名は他人に明かしてはなりません。それが規則なのです」
淡々とそう告げる大臣の目には何か凄(すご)いような気迫が込められていた。
「そうでしたか。私は、旅の者です」
「そう。それで充分です」
そう言って笑う大臣の目にはもはやあの鬼気(きき)迫(せま)る炎は宿っていなかった。
「それで、その……どうして――」
「ええ。ご説明いたします」
大臣は旅人の言葉をすっかり聞かない内に大きな声で語り始めた・
「あなたにはこの国で近々行なわれる祭りに参加していただきたいのです」
「祭り、ですか」
「ええ、ごく儀式的なものですが、この国の繁栄にはなくてはならない大切な祭りです……と、申しましてもお分かりがないかもしれません。ちょっとしたものをお目にかけましょう」
大臣が手を叩くと、小間使いの男が覆いのかけられた大きな盆を持って部屋へと入ってきた。大臣が覆いを取ると、黒曜石の埋め込まれた木剣と翡翠の面とが現れた。
「祭りの当日、貴方にはこの面をつけて、剣を持って、広場に立っていただきたいのです」
「広場に立つ……それだけですか」
「ええ。あとは自ずから分かることです」
 旅人の目はすっかり盆の上に釘付けにされ、大臣の声は薄い膜の外から聞こえてくるようにさえ思われた。黒曜石は貝殻のごとき断(だん)口(こう)を幻惑(げんわく)に妖(あや)しく光らせ、翡翠の面は発光を思わせる程の鮮やかな色彩で、しかし眼孔(がんこう)の奥にはその色彩の全てを飲み込まんとする陰影を確かに湛(たた)えてそこに在った。
「お引き受けいただけますか」
再び膜の外から声が聞こえたとき、旅人は面と剣に視線を奪われたままに、はい、と発声していた。

 群衆の声が旅人を急速に回想から現在へと連れ戻した。磔柱(はりつけばしら)の向こうに大臣の姿が見えた。旅人はただ立っていた。周囲に圧倒されるばかりで己がこれから何をなすべきか、まるで分らないでいた。大臣は、あとは自ずから分かる、と言っていたものの、一向分からなかった。磔柱の男は相変わらず何か叫んでいたが、遊離した旅人の心は別段、彼を気の毒とも思わなかった。
 旅人はふと、何か引力に誘われるように翡翠の面に目を落とした。鮮やかな色彩を放ってはいるものの、それを裏返すと窪(くぼ)んだ金属面が鈍(にび)色(いろ)に光を反射した。そしてその鈍色は即座に旅人の精神に作用し、彼の身体を動かした。旅人は面を顔にあてがうと、後頭部で紐(ひも)を結んだ。瞬間、旅人の中枢神経を氷針が貫いたかのごとき刺激が駆け抜け、それは即座に末梢(まっしょう)神経にまで達し、剣を握る手の筋肉を激しく収縮させた。

 あの男は人を殺しました。

 旅人の脳内に翡翠から声が流れ込んだ。彼は驚きもせず面の眼孔から磔柱に結わえられた男を凝視した。男は腰に巻かれた布以外には何も身に着けておらず、顔を紅潮させながら、やはり喉を振り絞って声をあげ続けていた。しかし、今の旅人には彼の声だけでなく、群衆の声すらも聞こえていなかった。ただ、催眠にかけられたかのごとく、翡翠の面を介して響く声だけに耳を傾けていた。
 
 あの男は人を殺した罪人です。あの男は人を殺しました。断罪せねばなりません。あの男は、人を、殺しました。罪人です。秩序のため、正義のため、裁かれなければなりません。あの男は人を殺したのです。

 旅人の中枢神経を貫いていた氷針が彼の湧き上がる熱によって溶解し、正義の麻薬となって血潮(ちしお)に乗ると、彼の身体の隅々にまで浸透した。
正義のために、この男を断罪せねばならない。
 そう胸に響いたのは翡翠の声ではなく、麻薬によって増幅せられた彼自身に宿る正義の声であった。黒曜石の剣を超常的握力で握りしめると旅人はゆっくりと磔柱へ歩みだした。一歩、歩みを進める度に彼の施行は不自然なまでの勢いで鈍化(どんか)され、磔柱を眼前に据えた今、彼の脳内に在るのは正義と断罪の二つだけであった。磔柱で罪人は旅人よりも二三寸高いところから何か語りかけていたものの、旅人は相手にしなかった。
両手でしっかり剣を構えると罪人の肩先から袈裟(けさ)懸(が)けに力いっぱいに斬りつけた。鮮血が斬撃をなぞって溢(あふ)れ、罪人が叫び、その顔が苦痛に歪(ゆが)むと群衆がどっと沸いた。剣に埋め込まれていた黒曜石のひとつが罪人の肩に突き刺さったまま、血濡れの断口を覗(のぞ)かせていた。そして彼の速くなったであろう脈拍に合わせるようにして深い傷口から絶えることなく不透明な柘榴(ざくろ)の色で血液が溢れ続けていた。

この男は人を殺しました。

 群衆のざわめきが旅人を鼓舞(こぶ)する振動として広場に満ちた。
 一体、この男に奪われた命はどんなだったろう、どれだけ苦しかったろう、と旅人は会ったこともない悲劇の人物を想った。そして今、彼はその人物の無念を晴らす罰の執行者(しっこうしゃ)として罪人と対峙していた。執行者は受け継いだ怨嗟(えんさ)の眼で罪人を見据えると、彼の腹部めがけて横一文字に剣を振るった。幾らか刃を失っていた剣は罪人の肉だか筋だかにその運動を妨(さまた)げられたものの、執行者は憎しみのまま、力任せに剣を振り抜き、彼の腹を裂いた。血が噴き出し、傷口と称するにはあまりに大きすぎる裂け目から罪人の悪しき心の宿った腸(はらわた)が露出した。それは日光を受けて瑪瑙(めのう)のような光沢をすら呈していた。罪人の業が大自然によって浄化されゆくその様に執行者は恍惚(こうこつ)とし、悪を滅せよと啓示を受けた己の運命を確信し、また、我にその力有り、と悟(さと)った。
 徐々に血の気を失い、肉体の死に向かって加速する己の運命をまざまざと感じ取った罪人の表情は恐怖と苦悶(くもん)に染まり、執行者に赦(ゆる)しを乞うたものの、それが聞き届けられる筈もなかった。彼は悪であった。因果応報。
 今、執行者に剣を振るわせているのはただ正義。その熱に彼は高揚し、天の意思として相応の罰を下すのが彼に与えられた使命であると信じて疑わなかった。
ふっつりと、執行者の思考能力が消失した。彼は罪人の息が絶えてもなお、ほとんど刃を失った剣で罪人を斬り続けた。命無き罪人の身体がボロ布のように肉と腸を垂らし、翡翠の面が返り血ですっかり朱に染まっても、狂人のごとく剣を振るっていた。
 
 彼の手が握力をすっかり失った頃、ようやく、旅人の自我が戻った。しかし、握った剣の柄(つか)は血に塗れ、高い粘度で彼の手をいつまでも離れなかった。旅人は力の入らぬ手を無理に動かし、剣を地へ落とすと、面を外した。あれ程強烈だった天啓の正義はすっかり消え失せ、彼は呆然(ぼうぜん)と広場に立ち尽くした。群衆は寒い程に静まり返って一様に不気味な微笑を浮かべ、旅人を見ていた。
 表情のない大臣がゆっくりと旅人の方へ歩いてくるのが見えたとき、彼は己の運命を悟り、わなわなと震えだした。

 翌年、旅人は罪人として広場に引き出された。対峙する執行者はわけも分からぬまま、剣を握り、翡翠の面を被った。

 この男は人を殺しました。
0