堤防と

作家: おのえ桜子
作家(かな):

堤防と

更新日: 2023/06/02 21:46
現代ファンタジー

本編


 私が堤防の上に立っている。こんなに高い堤防があるとは知らなかった。黒くて冷たくて植物も生えていないから、昨日の火山の噴火でできたんだろう。堤防の左側がどうなっているか見えないが、右側は向こうに見える砂浜に続いている。堤防の幅は自分の歩幅くらいで、水面が堤防と同じ高さまで来ている。海なのか? でも水平線がない。海苔のような香りが鼻腔を通り抜け、くしゃみが出そうになる。やっぱり海だと思う。覗いてみると、水は深い藍色をしていて何も見えない。

 時々踵が冷たく感じる。 冷たさを、針で刺したようにたった一点だけに感じて、もっと脚全体に感じないともったいないな、と思う。海の大きさとは対照的に、プールサイドに波が当たって割れる時の、あの頼りない音がした。その波が足の甲を舐めた。すね毛を剃っておけばよかったと悔しくなって、足の裏を黒い堤防に擦り付けた。足の裏からだんだん冷たさが上ってきて、膝のあたりで止まった。ああ、よかった。

砂浜には何かがあるように見えるが、ここからの距離感がつかめない。走ればすぐに到着できる距離に見えたり、目を細くすると砂浜が遠くに動いたりする。目をカッと開くと、腕を伸ばせば届く程になり、砂が手に付いた。切り忘れた爪の間に、砂が入った。

もう一度足元に広がる水面(みなも)を見る。海水は真水のように透き通り、海底が見える。思ったほど深くないのか? 入りたいなぁ。

 生まれてこのかた、深いプールや川や、ましてや海には飛び込んだことがなかったのに、こうすればきっと深くまで辛くなくて潜れるんだと思い、両手を揃えて天に向け、脚もきっちり揃えて、小さくえいっ、と言って地面を蹴って、足から海に入る。体は滑らかに、鳴門の渦潮の中に吸い込まれるように海中を落ちて行き、やがて海底に到着した。足の裏がくすぐったくなったので、すねに生えていた蔦で擦ってみた。楽になった。飛び込む前に深呼吸をしなかったのに、息が長続きする。

 水に潜るのは子供の時から得意だったと思い出す。好きな犬かきで泳ぎ始める。こんなに速く上手に泳ぐのは久しぶりだな。

 堤防の海側は無数の消波ブロックでできているが、ガラスのように滑らか。仕方がないなあ、とすねの蔦をまたむしり取って、ガラスを擦る。歪んだ変な顔が映る。

 海の中はとても快適で、この消波ブロック沿いに泳いで行けば砂浜に着くことは分かっていたが、急に遠回りをしたくなったので、そこから少し離れて泳いでいる。

 海底には深く窪んだ所があって、吸い寄せられるように近づくと、脚が長くて赤いカニが一匹こちらを睨んでいる。ここから出られないんだよ、ずっといるんだよ、と口から無数の泡を吐き出している。昨日食べたカニを捨てたから、ここにいるんだな。

 その泡が私の口に当たると、ますます息が楽になり、その代わりに犬かきはすっかり忘れていて、横泳ぎをしている。なんて上手。

 別の窪みを見つけた。そこに小さな虎みたいな生き物が座り込んでいて、水掻きのついた前脚でマージャン牌をシャッフルするように海底の砂をならしている。舞い上がる砂は緑色。お前の泡をくれないか、と口を大きく開けて三列に並んだ牙を見せつける。黙っていると、その生き物はカニになった。

 水中は目が全く痛くなくて、遠くまで見渡せる。裸で泳いでいる人もいるし、スーツを着て海底を歩いている人もいる。見ていると唇が歪んで泡が漏れた。反動で少し海水が入って来たが、味はしなかった。周りには魚が一匹も泳いでいない。

 私が海の浅瀬に立っている。目の前には目指していた砂浜があり、想像していたよりも遥かに狭い。ここでは海の家で商売できないな、と思う。砂は粉砂糖のように真っ白で、ひえびえとした暗さを感じる。多分、世界はここで終わりで、その背後には何もないから、ここも堤防のてっぺんなんだろう。

 砂浜の左側も箱庭のように遮断されている。そこに、海から伸びているボーリングのレーンが横たわっていて、その砂浜側の先端で男が一人、並んだ魚の仕分けをしている。男は麦藁帽子を目深に被っていて顔がよく見えない。ブルーのしわくちゃで色褪せたアロハシャツを着て、裸足で作業をしている。足の爪が全部黒い。

 魚の大きさは大小さまざまで、色はトロピカル調のものや深海魚のように薄汚れたものもある。金魚までいる。レーンの海側の端に立ってその様子を眺めていると、急に男が手招きをした。最初は何を意味しているのか分からずじっと立っていると、今度はもっと激しく両腕を動かして何か言っている。

 私の腕の中に鯛がいた。キラキラした鱗はピンク色に輝き、若葉のような薄緑色の線が時々レンギョウのような黄色に変化する。そしてまた薄緑色に戻る。ヒレはどれもピンとして、開いたり閉じたりしている。目玉はラムネのビー玉でできている。食べるとおいしいところだ。腕全体がもぞもぞする。エラ蓋がパクパクし始め、中の海老茶色したエラが見える。そのエラの細かい裂け目が見えた途端、気持ち悪くなって、男に向かって鯛を投げた。

 鯛は、レーンの真ん中あたりで音も立てずに落ち、少しずつ滑って他の魚たちの仲間入りをした。

「うまい、うまい」

 男の顔はまだ見えなかったが、笑顔のような気がする。褒められたのでこちらもニコリとする。

「泳いで来たんやったら、今度はあそこを歩いて来たらええ」

 振り返ることができなくて、男が何を指差しているのか見えない。視界にはまだボーリングのレーンと、その上に順位不同に並べられた魚と、それを取り囲む白い砂浜しかない。

「歩いて来たらええ」

 男はもういない。

 さっきの堤防のてっぺんに私がいる。

 歩いたら何が違うのかさっぱり分からないまま、足元の感触を確認しようと、また足の裏を黒い堤防に擦り付ける。海の色はまた深い藍色になっていた。

 海に向かって右手に見える砂浜には、何があるか見当が付いていたし、また指先に砂を感じたし、すぐに行けると思った。堤防の幅がとても狭いので、用心しないと海に落ちるか、堤防の下に落ちるかのどちらか。もう、海への潜り方を忘れてしまっている。

 くるっと右を向いて、一歩踏み出したが、恐怖心はない。歩を進める毎にどこからか、表面の荒い石同士を擦り合わせたような音がする。素足だったから、この音がどこから発生しているのか判断できなかったが、自分の足が堤防の表面と同じく、冷えた溶岩のようになっているのに気づいた。なんだ、当たり前じゃないか、と音の原因を納得した。

 どれほど歩いたか分からなかったが、一向に砂浜は近づいて来ない。視野左手奥に細長い何かが見えるのに、今となってはそれが何だったのか、判別できない自分がいる。誰かがいたんだろうか。

 いくら歩いても足が前に進んでいる気がせず、立ち止まると後ろへ流されて行くような感覚がある。堤防が伸び続けているのか、自分が後退しているのか、まるでわからない。雪山をスキーで登る時の感じに似ていて、イライラし始めた。

 さっきまであった大海原は忽然と姿を消して、堤防の高さから一面に広がっているのは砂漠だと思う。砂が時折、歩いている堤防にサラサラ舞い込んで、私の足の甲を撫でる。砂漠と堤防の境目がない。今や砂まみれになっている足は、人間の皮膚を持つものに変わっていた。
(了)
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