ティッシュ配り
ティッシュ配り
更新日: 2023/06/02 21:46恋愛
本編
「こんにちはー、ティッシュをどうぞー」
黄色の法被を着た女性スタッフからそれを一つもらった。その後ろに目をやると、大量の風船があった。ハートに星に音符に丸形、赤青緑に黄色に銀色、それから桃色に紫、あとは金銀銅…確認できるだけでそのくらいはある。多様な風船で模られたアーチの中には長テーブルとパイプ椅子がセッティングされていた。
ショッピングセンターの入り口で、ひとり配られたティッシュを見つめる俺。『インターネットは◯◯モバイル! ☆☆セットプランがお得です』と書かれた背面に何一つ興味を湧けなかったので、そのままジャケットのポケットに放り込んだ。
『ティッシュをどうぞ』―そんなの見ればすぐに分かる。
ブースの気合の入れようと身だしなみからして、誰が見ても携帯会社による営業活動の一環だった。
でも…俺に声かけたスタッフ。
マスク越しでしか分からないけど…控えめに言ってすげぇ可愛い。
程よい薄化粧で、清楚感があって、こういう女子と付き合いたいなぁとちょっとだけ思ってしまった。
はっきり言う。めちゃくちゃタイプ。
「もしかして、今ネット回線が気になっていたりします?」
さっきのスタッフだった。名札には『神島』と書かれている。
黒目が大きいつぶらな瞳で上目遣いをキメてくる神島さん。思わず目を見てしまった俺。
いつもなら面倒くさくて強行スルーするところだが、この時はなぜかピタリと足を止めてしまった。
「もしよろしければ、あちらでご相談していかれませんか?」
そう言う彼女の手の先には、端っこに居座る毒々しい色のアーチがあった。風船に釣られたのか子供が数人興味本位でブースに近寄っている。それに気づいた別のスタッフが形勢する一個を外して子供一人ひとりに渡す。連れている親には俺と同じく例のティッシュを配り、ここぞとばかりに引き込ませようと必死に話しかけていた。
「すぐ終わりますから、5分だけお時間いただきますね」
こうして俺は神島さんに導かれるがまま、多様性の塊みたいな風船アーチの中に入っていった。
俺と神島さんは、手取り足取りいろんな話をした。
今の携帯会社だとかなり割高なプランになっているだとか、毎日ネットを使っているのであればこのプランが最適だとか。あとは…とてつもなくどうでもいい世間話をしたり神島さんの身の上話を聞いたりした。
神島さんは3年目の若手社員だ。新卒でこの会社に入り、営業成績は5本の指に入るという。
あまりしゃしゃり出なさそうな印象だが、ティッシュを配った後に話しかけるところから察するに、意外と肉食系なんだろうなと思った。それでいて俺が話す隙間を作ってくれるからとても話しやすい。「5分間だけ」と神島さんが言っていたのにも関わらず、体感時間としては1時間を有に超えていた。
「現状に満足されているとのことですので思い切って変えるのも勇気がいることだとは思います。こちら全て差し上げますのでゆっくりご覧になってください」
神島さんとの会話が終わってしまう。もうここから出なければなけない。
えっ、もう終わりなの? 結構話し込んじゃったけど、アイドルの握手会並みの速さだったよ…
心の中で落胆したその刹那、神島さんが名刺を差し出してくれた。
「普段は私、こちらの店舗にいますので。何かご相談したい時はこちらまでご連絡ください。状況が状況ですので、電話相談でも大丈夫です!」
名刺にはこう書かれていた。
◯◯モバイル代理店 ☆☆プレゼンテーション株式会社
△△店 神島 久恵
「いつでも連絡してくださいね」
神島さんはそう言って、ブースを後にする俺を見送ってくれた。時間惜しさに何度か振り返ってみたが、彼女は45度のお辞儀をしたままだった。
神島さんが忘れられない。
あの時、誰が見ても分かる代物を『ティッシュです』と言って手渡してきた度胸さ。今思うとそれこそが神島さんが仕掛けた罠、それにまんまと嵌められた俺。清楚系バリキャリ女子の虜になったのは否定しない。でも、神島さんになら喜んでこの身を捧げたい。
『◯◯モバイルひかりサービス』のパンフレットを捲りながら、あれこれ考える。栞代わりにしている神島さんの名刺。右手でそれをそっと持って、左手でパンフレットを捲る。次のページになったらまた名刺を栞にして閉じる。
正直言って、神島さんのためならネットや携帯を切り替えてもいいかもしれない―現状のままだといつまで立っても進まないし、他の糸口が見つからない。070から始まる携帯番号だって社内携帯だろうし、一人の個人的感情で電話をかけるのはいくらなんでもいただけない。
じゃあどうすればいいのか。俺はひたすら考えた。
もっとナチュラルに、怪しまれないレベルで、神島さんとお近づきになれるか。
もう一度、神島さんの名刺を見る。
馬鹿なことに、超基本的なことが頭から抜けていたのに気づいた。
神島さんがいる店舗に行けばいいんだ。
なんだ、簡単じゃないか。そうと決まれば、明日の会社帰りに神島さんの店舗に行こう。
俺はルンルン気分で横になった。変に身体が熱かったので、全裸になってそのまま寝た。
明くる日の夕方、俺は仕事を早く片付けて神島さんがいる携帯ショップへ向かった。
休憩時間に来店予約を取り付けておいた。今日はたまたま客足が空いているとのことだったので、スタッフ指名もできた。もちろん希望スタッフは神島さんだ。
ショップへ入り、タブレットで手続きを済ませる。
2分くらい待っただろうか。神島さんが俺の名前を呼ぶ。
俺は言われるがまま、神島さんがいるカウンターに行き、席についた。
「乗り換えをご希望ですね? ありがとうございます! 早速ですが…」
店舗の神島さんはティッシュ配りの時と変わらない笑顔のまま、事務的に乗り換え手続きを進めた。
俺のことは覚えているのかいないのか、そこまではよく分からない。ただ、神島さんと一緒の時間を共有できる幸せをひしひしと感じることができた。
乗り換えは滞りなく終わった。今使っている機種では回線が使えないため、別の機種に買い替えた。『☆☆セットプラン』でネット回線も一緒にした。
そこまではいい。むしろ、それでいい。本番はこの後だ。
「…説明は以上になります」
神島さんの説明が終わる。
「他に気になることやご質問はございますか?」
気になること…それは一つだけある。ここまでずっと引っかかっていた。
つらかった。もどかしかった。どうにかなりそうだった。その引っかかりを解消する時が来た。
俺は、いつぞやのティッシュと名刺を神島さんの前に出した。
「あの…昨日ティッシュ配りしていましたよね」
「…そういえば、昨日うちのブースでお話しましたよね! お店に来てくださってとても嬉しいです!」
神島さんは覚えてくれていた。それだけで胸がいっぱいになった。
いや、これで満足してはいけない。俺は続ける。
「あの…名刺頂いたのはすごくありがたいんですけど…なんというか、その…店舗外でというか…仕事以外のところでもっと仲良くなりたいんですよね」
しどろもどろになりそうになるが、さらに続ける。
「だからその………連絡先、交換したいんです…よ、ね。だから…」
言えた。
何とか言えた。
「わぁ、ありがとうございます!」
神島さんは笑顔を崩していなかった。それどころか、お礼の言葉まで言われた。
やった。これでイケるのか…?
自分のキャラじゃないことをしている自覚があっただけに、このリアクションは想定外だった。
「何かあった時は名刺の連絡先で十分ですよ。サポートさせていただきますね」
「えっ、お休みの時とかあるでしょう? 社内携帯だとかえって不便じゃないですか?」
「休暇時は確かに社内携帯は不通になりますが、その際はカスタマーサポートに転送できるようになっているんです」
「はぁ…でも、社内携帯じゃなくて…」
「すみません、プライベートのことはお伝えできないことになっているんです。サービスでお困りの際は社内携帯におかけいただければ対応させていただきます! それにしても、結構お悩みになりましたよね…改めて弊社をお選びいただき、ありがとうございました!」
俺は改めて気づいた。ティッシュを配られた段階で、神島さんの罠にかかっていたことを。見た目に惑わされてあらぬ幻想を抱いたことを。どうでもいい身の上話は単なるアイスブレイクでしかなかったことを。
こうして俺の熱く激しい二日間が終わった。
花粉症じゃないのに鼻水がどっと溢れ、呼吸が乱れた。俺はすかさずもらったティッシュを取り出し鼻をかんだ。
0黄色の法被を着た女性スタッフからそれを一つもらった。その後ろに目をやると、大量の風船があった。ハートに星に音符に丸形、赤青緑に黄色に銀色、それから桃色に紫、あとは金銀銅…確認できるだけでそのくらいはある。多様な風船で模られたアーチの中には長テーブルとパイプ椅子がセッティングされていた。
ショッピングセンターの入り口で、ひとり配られたティッシュを見つめる俺。『インターネットは◯◯モバイル! ☆☆セットプランがお得です』と書かれた背面に何一つ興味を湧けなかったので、そのままジャケットのポケットに放り込んだ。
『ティッシュをどうぞ』―そんなの見ればすぐに分かる。
ブースの気合の入れようと身だしなみからして、誰が見ても携帯会社による営業活動の一環だった。
でも…俺に声かけたスタッフ。
マスク越しでしか分からないけど…控えめに言ってすげぇ可愛い。
程よい薄化粧で、清楚感があって、こういう女子と付き合いたいなぁとちょっとだけ思ってしまった。
はっきり言う。めちゃくちゃタイプ。
「もしかして、今ネット回線が気になっていたりします?」
さっきのスタッフだった。名札には『神島』と書かれている。
黒目が大きいつぶらな瞳で上目遣いをキメてくる神島さん。思わず目を見てしまった俺。
いつもなら面倒くさくて強行スルーするところだが、この時はなぜかピタリと足を止めてしまった。
「もしよろしければ、あちらでご相談していかれませんか?」
そう言う彼女の手の先には、端っこに居座る毒々しい色のアーチがあった。風船に釣られたのか子供が数人興味本位でブースに近寄っている。それに気づいた別のスタッフが形勢する一個を外して子供一人ひとりに渡す。連れている親には俺と同じく例のティッシュを配り、ここぞとばかりに引き込ませようと必死に話しかけていた。
「すぐ終わりますから、5分だけお時間いただきますね」
こうして俺は神島さんに導かれるがまま、多様性の塊みたいな風船アーチの中に入っていった。
俺と神島さんは、手取り足取りいろんな話をした。
今の携帯会社だとかなり割高なプランになっているだとか、毎日ネットを使っているのであればこのプランが最適だとか。あとは…とてつもなくどうでもいい世間話をしたり神島さんの身の上話を聞いたりした。
神島さんは3年目の若手社員だ。新卒でこの会社に入り、営業成績は5本の指に入るという。
あまりしゃしゃり出なさそうな印象だが、ティッシュを配った後に話しかけるところから察するに、意外と肉食系なんだろうなと思った。それでいて俺が話す隙間を作ってくれるからとても話しやすい。「5分間だけ」と神島さんが言っていたのにも関わらず、体感時間としては1時間を有に超えていた。
「現状に満足されているとのことですので思い切って変えるのも勇気がいることだとは思います。こちら全て差し上げますのでゆっくりご覧になってください」
神島さんとの会話が終わってしまう。もうここから出なければなけない。
えっ、もう終わりなの? 結構話し込んじゃったけど、アイドルの握手会並みの速さだったよ…
心の中で落胆したその刹那、神島さんが名刺を差し出してくれた。
「普段は私、こちらの店舗にいますので。何かご相談したい時はこちらまでご連絡ください。状況が状況ですので、電話相談でも大丈夫です!」
名刺にはこう書かれていた。
◯◯モバイル代理店 ☆☆プレゼンテーション株式会社
△△店 神島 久恵
「いつでも連絡してくださいね」
神島さんはそう言って、ブースを後にする俺を見送ってくれた。時間惜しさに何度か振り返ってみたが、彼女は45度のお辞儀をしたままだった。
神島さんが忘れられない。
あの時、誰が見ても分かる代物を『ティッシュです』と言って手渡してきた度胸さ。今思うとそれこそが神島さんが仕掛けた罠、それにまんまと嵌められた俺。清楚系バリキャリ女子の虜になったのは否定しない。でも、神島さんになら喜んでこの身を捧げたい。
『◯◯モバイルひかりサービス』のパンフレットを捲りながら、あれこれ考える。栞代わりにしている神島さんの名刺。右手でそれをそっと持って、左手でパンフレットを捲る。次のページになったらまた名刺を栞にして閉じる。
正直言って、神島さんのためならネットや携帯を切り替えてもいいかもしれない―現状のままだといつまで立っても進まないし、他の糸口が見つからない。070から始まる携帯番号だって社内携帯だろうし、一人の個人的感情で電話をかけるのはいくらなんでもいただけない。
じゃあどうすればいいのか。俺はひたすら考えた。
もっとナチュラルに、怪しまれないレベルで、神島さんとお近づきになれるか。
もう一度、神島さんの名刺を見る。
馬鹿なことに、超基本的なことが頭から抜けていたのに気づいた。
神島さんがいる店舗に行けばいいんだ。
なんだ、簡単じゃないか。そうと決まれば、明日の会社帰りに神島さんの店舗に行こう。
俺はルンルン気分で横になった。変に身体が熱かったので、全裸になってそのまま寝た。
明くる日の夕方、俺は仕事を早く片付けて神島さんがいる携帯ショップへ向かった。
休憩時間に来店予約を取り付けておいた。今日はたまたま客足が空いているとのことだったので、スタッフ指名もできた。もちろん希望スタッフは神島さんだ。
ショップへ入り、タブレットで手続きを済ませる。
2分くらい待っただろうか。神島さんが俺の名前を呼ぶ。
俺は言われるがまま、神島さんがいるカウンターに行き、席についた。
「乗り換えをご希望ですね? ありがとうございます! 早速ですが…」
店舗の神島さんはティッシュ配りの時と変わらない笑顔のまま、事務的に乗り換え手続きを進めた。
俺のことは覚えているのかいないのか、そこまではよく分からない。ただ、神島さんと一緒の時間を共有できる幸せをひしひしと感じることができた。
乗り換えは滞りなく終わった。今使っている機種では回線が使えないため、別の機種に買い替えた。『☆☆セットプラン』でネット回線も一緒にした。
そこまではいい。むしろ、それでいい。本番はこの後だ。
「…説明は以上になります」
神島さんの説明が終わる。
「他に気になることやご質問はございますか?」
気になること…それは一つだけある。ここまでずっと引っかかっていた。
つらかった。もどかしかった。どうにかなりそうだった。その引っかかりを解消する時が来た。
俺は、いつぞやのティッシュと名刺を神島さんの前に出した。
「あの…昨日ティッシュ配りしていましたよね」
「…そういえば、昨日うちのブースでお話しましたよね! お店に来てくださってとても嬉しいです!」
神島さんは覚えてくれていた。それだけで胸がいっぱいになった。
いや、これで満足してはいけない。俺は続ける。
「あの…名刺頂いたのはすごくありがたいんですけど…なんというか、その…店舗外でというか…仕事以外のところでもっと仲良くなりたいんですよね」
しどろもどろになりそうになるが、さらに続ける。
「だからその………連絡先、交換したいんです…よ、ね。だから…」
言えた。
何とか言えた。
「わぁ、ありがとうございます!」
神島さんは笑顔を崩していなかった。それどころか、お礼の言葉まで言われた。
やった。これでイケるのか…?
自分のキャラじゃないことをしている自覚があっただけに、このリアクションは想定外だった。
「何かあった時は名刺の連絡先で十分ですよ。サポートさせていただきますね」
「えっ、お休みの時とかあるでしょう? 社内携帯だとかえって不便じゃないですか?」
「休暇時は確かに社内携帯は不通になりますが、その際はカスタマーサポートに転送できるようになっているんです」
「はぁ…でも、社内携帯じゃなくて…」
「すみません、プライベートのことはお伝えできないことになっているんです。サービスでお困りの際は社内携帯におかけいただければ対応させていただきます! それにしても、結構お悩みになりましたよね…改めて弊社をお選びいただき、ありがとうございました!」
俺は改めて気づいた。ティッシュを配られた段階で、神島さんの罠にかかっていたことを。見た目に惑わされてあらぬ幻想を抱いたことを。どうでもいい身の上話は単なるアイスブレイクでしかなかったことを。
こうして俺の熱く激しい二日間が終わった。
花粉症じゃないのに鼻水がどっと溢れ、呼吸が乱れた。俺はすかさずもらったティッシュを取り出し鼻をかんだ。