見えないレンズで思い出を視る
見えないレンズで思い出を視る
更新日: 2023/06/02 21:46現代ドラマ
本編
見えていた過去
眼鏡をかけないで。
お父さん。
私があなたにかけたいから。
私があなたに眼鏡をかける。
きまって、あなたは目をつむる。
太い鼈甲(べっこう)の眼鏡(がんきょう)が、白い毛薄い眉によく写る。
眼鏡のフレームは、つるつるしている。光にかざすと、琥珀が鈍く写り込む。
私は見慣れない万華鏡のように、飽きずにかざし続けた。あなたが嬉しそうに笑う。私は何度もやった。
お父さん。
眼鏡をしまって。
眼鏡をかけると、あなたは仕事の鬼に変わってしまうから。
小さな眼鏡店の為、あなたは無理をする。親が残した大事なお店を必死で守っているから。いつも、彼はひょろ長の青白い顔で、帳簿と睨めっこしていた。
怖くて、近寄れなかった。早く仕事が終わればいいのにと、幼い私は神様に祈る。まるで、あばら屋で嵐が去るのを待つように。
ねぇ、お父さん。
眼鏡に優しくしないで。
細心の注意で、眼鏡のネジを巻かないで。
指の腹を見ると、あなたの手の温もりを思い出す。商品なのに、なぜか嫉妬してしまうの。
いつのまにか、冷たいフレームが熱を帯びてきたように感じてしまい……ヤキモチを妬いて、眼鏡を壊したくなってしまう。
でも、お父さん。
眼鏡を壊さないで。
彼には、眼鏡は大切なものであったから。場合によっては、眼鏡は命よりも大切な存在だった。
だけど。
幼い私の精一杯の願いは、叶わなかった。ある日父は眼鏡を壊してしまった。
お父さん。
事業を畳んで、親に申し訳ないからと眼鏡を一生かけないなんて言わないで。
鼈甲の眼鏡も……お父さんの眼鏡をこなごなに壊してしまって……魂がこなごなに砕けてしまったようだった。
娘の私は、いつもみたいに眼鏡をつけてあげたかった。それだけだった。
物覚え着く前に母は亡くなった。気付いたら2人ぽっちだった。だから、たとえようもなく辛く悲しい。
どうにか直そうと手を尽くしたのに……直らない。どうしても直したかった私は……福井の鯖江へ行って、眼鏡の職人になる決意をする。
学校にも行き、認定眼鏡士にもなった。まだ誰もなっていない、完璧な眼鏡修復士になる為に。
何より眼鏡が大好きだった、お父さんの為に。
失ったお父さんの心を取り戻す為だったら、不思議と苦労も全然平気だった。
それから、長い時間がたつ。辛い修行の末に、私は誰にもできなかった修繕……父の眼鏡を修復する事ができた。
見えなくなった現在
眼鏡職人になった私は、お父さんと更地にやってきた。
変わり果てた、お父さんの店の跡地だ。
父は白杖と私の手を支えに突っ立っている。
数年前、お父さんは緑内障で失明した。
目が見えなくなり、今も状況は変わっていない。
私は修復した眼鏡をかける。
父は驚きながらも、待っていた。私がかけるのを心待ちにしている。
耳をピクピクさせていて、愛しいと思った。
ゆっくりと、私は彼に眼鏡をかけた。
「ああ……。この感触だ……かんだ跡のでこぼこもある。懐かしい。……でも、見えないな」
父は、くすんだ琥珀のフレームを触って言った。フレームは優しくなぞられる。
あの頃と同じように笑みを浮かべる。
和む。
でも、真新しいレンズは老けた父と釣り合わない。
「お父さん」いつの間にか、私は涙ぐんでいた。眼鏡をつけてもよく視えない。
「でも……なあ、見えるか。優子(ゆうこ)には見えるのか」
「……うん、見えるよ。お父さん」
私はうなづく。かける前に、何度も確認した。
眼鏡を修復する間、数え切れないほどチェックした。
度の強い父の眼鏡は、レンズを通してはっきりと風景を写し取っていく。
でも、本当に見て欲しかった相手には見えないのだ。
「そうかあ……あっ!」と、目を細めて父はなにもない更地をにらみつけた。
「見える……店が見える!俺達の店、橘眼鏡店(たちばながんきょうてん)だぞ、優子!
白々しいまでの蛍光灯に、店のショーケースがきらりと光ってる。
そうだ……中の眼鏡のレンズが反射して、眼鏡が曇ってるように見えるんだ。
ボーンボーンと柱時計の音も聞こえる。土臭い匂いがしない……当たり前だ。
お客様に気持ちよく買っていただく為に、いつも念入りに清掃したんだからな。優子、俺達の家だぞ」
父と私はゆっくりと、ぺんぺん草の生えない、黄昏(たそがれ)た土地に足を踏み入れる。
私は泣きながら言った。
「私にも見えたよ、お父さん。……私達の家が」
そうだ。
セピア色のレンズで見れば……心の中で鮮やかに見える。
「うん……店先のショーケースには、ひな壇(だん)みたいな、赤い敷布があって。その上に、セルロイドの黒縁丸眼鏡、中段にはステンレスの角眼鏡、奥には鼈甲と竹の眼鏡が陳列されていて……」
ステンレスの眼鏡は今やほとんど出回っていない。
成分の一つのニッケルは、金属アレルギーを起こしやすい。
代わりにチタンやアルミニウムに切り替わったのだ。
ポリウレタンのハイセンスな形状の眼鏡も、橘眼鏡店では取り扱っていない。
だって、その頃には私達の家はもうなくなってしまっていたから。
父は惚れ惚れするように、更地を練り歩く。
彼も本当は見えていないはずだ。
元眼鏡で生計を立てていた人だ。
現実的な水晶体を通しての、視神経の複合的な運動部分はどうしても曲げることはできない。
……でも、私たちには見えているのだ。私への気遣いだとか、そういった甘い物でなく……あのふるぼけたフレームの眼鏡が私と父に見せている。
モノクロからカラーへフィルムに移し替えるように。瞬時に鮮やかに映し出していた。
しばらく父と私は『橘眼鏡店』を、私達の家を歩いていった。
家中を回りながら、父はひっそりとつぶやく。私にも聞こえないくらいに。
「……父ちゃん、ごめん。父ちゃんが一番に大切にしてた店、守れなかった」
私は聞こえないふりをする。理由はわからない。けど、踏み込んではいけない気がした。俯いた父から、涙が溢れていた。
やがて、夕日も暮れた頃、私達は店を後にした。
思い出を一旦心の中にしまい込んだ。
店の入り口……更地の入り口付近で、私とお父さんはしばらくぼうっとしていた。
さらさらさらと、泳ぐように秋風が髪を揺らす。
そんなさなか、父はぽつりと言う。和やかに、温かな笑顔で。
「優子……お前、本当に立派な職人になったな」
また私は泣く。今度は声を上げて、ぐずぐずになる。
ばかっ、ばかっ。
違う。
あんたのおかげだよ。
眼鏡が好きなあんたのおかげだったんだよ。
修行も辛かったけど……あたしもどうしようもなく、好きになっちゃったんだよ。
最初はあんたの為だけだったけど。
眼鏡の事が。本当に。切実に。
大好きになっちゃったんだよ。
「ありがとう、お父さん」そう言って私は父を抱きしめた。彼は驚いている。
父の眼鏡を見てみる。
あれ?と頭の中に疑問符がついた。
どうしてかはわからなかったけれど。
心なしか鼈甲のフレームが、喜んでいる様に感じられた。
(了)
0眼鏡をかけないで。
お父さん。
私があなたにかけたいから。
私があなたに眼鏡をかける。
きまって、あなたは目をつむる。
太い鼈甲(べっこう)の眼鏡(がんきょう)が、白い毛薄い眉によく写る。
眼鏡のフレームは、つるつるしている。光にかざすと、琥珀が鈍く写り込む。
私は見慣れない万華鏡のように、飽きずにかざし続けた。あなたが嬉しそうに笑う。私は何度もやった。
お父さん。
眼鏡をしまって。
眼鏡をかけると、あなたは仕事の鬼に変わってしまうから。
小さな眼鏡店の為、あなたは無理をする。親が残した大事なお店を必死で守っているから。いつも、彼はひょろ長の青白い顔で、帳簿と睨めっこしていた。
怖くて、近寄れなかった。早く仕事が終わればいいのにと、幼い私は神様に祈る。まるで、あばら屋で嵐が去るのを待つように。
ねぇ、お父さん。
眼鏡に優しくしないで。
細心の注意で、眼鏡のネジを巻かないで。
指の腹を見ると、あなたの手の温もりを思い出す。商品なのに、なぜか嫉妬してしまうの。
いつのまにか、冷たいフレームが熱を帯びてきたように感じてしまい……ヤキモチを妬いて、眼鏡を壊したくなってしまう。
でも、お父さん。
眼鏡を壊さないで。
彼には、眼鏡は大切なものであったから。場合によっては、眼鏡は命よりも大切な存在だった。
だけど。
幼い私の精一杯の願いは、叶わなかった。ある日父は眼鏡を壊してしまった。
お父さん。
事業を畳んで、親に申し訳ないからと眼鏡を一生かけないなんて言わないで。
鼈甲の眼鏡も……お父さんの眼鏡をこなごなに壊してしまって……魂がこなごなに砕けてしまったようだった。
娘の私は、いつもみたいに眼鏡をつけてあげたかった。それだけだった。
物覚え着く前に母は亡くなった。気付いたら2人ぽっちだった。だから、たとえようもなく辛く悲しい。
どうにか直そうと手を尽くしたのに……直らない。どうしても直したかった私は……福井の鯖江へ行って、眼鏡の職人になる決意をする。
学校にも行き、認定眼鏡士にもなった。まだ誰もなっていない、完璧な眼鏡修復士になる為に。
何より眼鏡が大好きだった、お父さんの為に。
失ったお父さんの心を取り戻す為だったら、不思議と苦労も全然平気だった。
それから、長い時間がたつ。辛い修行の末に、私は誰にもできなかった修繕……父の眼鏡を修復する事ができた。
見えなくなった現在
眼鏡職人になった私は、お父さんと更地にやってきた。
変わり果てた、お父さんの店の跡地だ。
父は白杖と私の手を支えに突っ立っている。
数年前、お父さんは緑内障で失明した。
目が見えなくなり、今も状況は変わっていない。
私は修復した眼鏡をかける。
父は驚きながらも、待っていた。私がかけるのを心待ちにしている。
耳をピクピクさせていて、愛しいと思った。
ゆっくりと、私は彼に眼鏡をかけた。
「ああ……。この感触だ……かんだ跡のでこぼこもある。懐かしい。……でも、見えないな」
父は、くすんだ琥珀のフレームを触って言った。フレームは優しくなぞられる。
あの頃と同じように笑みを浮かべる。
和む。
でも、真新しいレンズは老けた父と釣り合わない。
「お父さん」いつの間にか、私は涙ぐんでいた。眼鏡をつけてもよく視えない。
「でも……なあ、見えるか。優子(ゆうこ)には見えるのか」
「……うん、見えるよ。お父さん」
私はうなづく。かける前に、何度も確認した。
眼鏡を修復する間、数え切れないほどチェックした。
度の強い父の眼鏡は、レンズを通してはっきりと風景を写し取っていく。
でも、本当に見て欲しかった相手には見えないのだ。
「そうかあ……あっ!」と、目を細めて父はなにもない更地をにらみつけた。
「見える……店が見える!俺達の店、橘眼鏡店(たちばながんきょうてん)だぞ、優子!
白々しいまでの蛍光灯に、店のショーケースがきらりと光ってる。
そうだ……中の眼鏡のレンズが反射して、眼鏡が曇ってるように見えるんだ。
ボーンボーンと柱時計の音も聞こえる。土臭い匂いがしない……当たり前だ。
お客様に気持ちよく買っていただく為に、いつも念入りに清掃したんだからな。優子、俺達の家だぞ」
父と私はゆっくりと、ぺんぺん草の生えない、黄昏(たそがれ)た土地に足を踏み入れる。
私は泣きながら言った。
「私にも見えたよ、お父さん。……私達の家が」
そうだ。
セピア色のレンズで見れば……心の中で鮮やかに見える。
「うん……店先のショーケースには、ひな壇(だん)みたいな、赤い敷布があって。その上に、セルロイドの黒縁丸眼鏡、中段にはステンレスの角眼鏡、奥には鼈甲と竹の眼鏡が陳列されていて……」
ステンレスの眼鏡は今やほとんど出回っていない。
成分の一つのニッケルは、金属アレルギーを起こしやすい。
代わりにチタンやアルミニウムに切り替わったのだ。
ポリウレタンのハイセンスな形状の眼鏡も、橘眼鏡店では取り扱っていない。
だって、その頃には私達の家はもうなくなってしまっていたから。
父は惚れ惚れするように、更地を練り歩く。
彼も本当は見えていないはずだ。
元眼鏡で生計を立てていた人だ。
現実的な水晶体を通しての、視神経の複合的な運動部分はどうしても曲げることはできない。
……でも、私たちには見えているのだ。私への気遣いだとか、そういった甘い物でなく……あのふるぼけたフレームの眼鏡が私と父に見せている。
モノクロからカラーへフィルムに移し替えるように。瞬時に鮮やかに映し出していた。
しばらく父と私は『橘眼鏡店』を、私達の家を歩いていった。
家中を回りながら、父はひっそりとつぶやく。私にも聞こえないくらいに。
「……父ちゃん、ごめん。父ちゃんが一番に大切にしてた店、守れなかった」
私は聞こえないふりをする。理由はわからない。けど、踏み込んではいけない気がした。俯いた父から、涙が溢れていた。
やがて、夕日も暮れた頃、私達は店を後にした。
思い出を一旦心の中にしまい込んだ。
店の入り口……更地の入り口付近で、私とお父さんはしばらくぼうっとしていた。
さらさらさらと、泳ぐように秋風が髪を揺らす。
そんなさなか、父はぽつりと言う。和やかに、温かな笑顔で。
「優子……お前、本当に立派な職人になったな」
また私は泣く。今度は声を上げて、ぐずぐずになる。
ばかっ、ばかっ。
違う。
あんたのおかげだよ。
眼鏡が好きなあんたのおかげだったんだよ。
修行も辛かったけど……あたしもどうしようもなく、好きになっちゃったんだよ。
最初はあんたの為だけだったけど。
眼鏡の事が。本当に。切実に。
大好きになっちゃったんだよ。
「ありがとう、お父さん」そう言って私は父を抱きしめた。彼は驚いている。
父の眼鏡を見てみる。
あれ?と頭の中に疑問符がついた。
どうしてかはわからなかったけれど。
心なしか鼈甲のフレームが、喜んでいる様に感じられた。
(了)