遠い
遠い
更新日: 2023/06/02 21:46現代ドラマ
本編
日曜の午後、駅は人でごった返している。手土産の和菓子が入った紙袋を持ち、カフェを探してぶらぶら歩いていたが、あまりの人の多さに駅中のカフェは諦めることにした。
記憶を頼りに、駅を出て少し歩いた場所にある喫茶店を目指す。特に美味しいわけではないのだが、いつでも空いている喫茶店だ。道路沿いを歩いていると見えてきたその店は、案の定、遠目からでもガラガラであることがわかった。
そうまでして、喫茶店に寄らなければならないのか。このまま目的地に向かえば良いのに。
一瞬、そんな思いが頭をよぎる。
しかし、どうしてもこのまま真っ直ぐあの場所に、あの人に会いに、行ける気がしなかった。
ブラックコーヒーを頼んで端の席に座る。ずっとポケットにしまっていたスマホを見ると、あの人からのメッセージが届いていた。
『こっちは準備できてるから、いつでも来て良いよ。久しぶりに会えるのを、楽しみにしています』
穏やかなあの人の顔を思い出すような、シンプルなメッセージ。きっと社交辞令ではない、本当に楽しみにしてくれているのだろう。あの優しい笑顔で、迎えてくれるのだろう。
それなのに、どうしても会いたくないのだ。
私が笑顔で、会える気がしないのだ。
あの人…、桑島澄人(くわじますみと)は、今大人気の画家であり、私の幼なじみである。
昔から絵を描くことが好きで、美術のコンクールではいつも何かしらの賞を取っていた。絵心というものが全く存在しない私にとって、彼の芸術センスは純粋に羨ましいものだった。
一方、口下手でおとなしい彼は、私の文章をよく褒めてくれた。幼い頃から作家を目指していた私は、彼にだけはこっそり自分の作品を見せたものだ。
「もし君が本を出版することになったら、僕に表紙の絵を描かせてくれ」
大真面目な顔をして彼は言ったし、私も
「もちろん。挿絵だって描いてもらうさ」
と大真面目に約束したのである。
彼が美大に進学するために上京してからは長らく連絡をとっていなかったのだが、今月地元に戻って来ると聞き、会うことになったのだ。
彼は、帰ってきた。
有名な画家として、個展を開くために。
そして私は、彼に会いに行く。
彼の友だち兼、ただのサラリーマンとして。
桑島の優しい絵柄は、誰からも愛されていた。こんな田舎の地元だけでなく、東京など都会の方でも何度も個展を開いている。
すっかり遠い存在になってしまった。
彼の活躍は絵だけに留まらない。
少し前に、絵本を出版したという。
喜ばしいことなのだ。幼なじみの活躍というのは。
でも、口では「おめでとう」と言いながらも、そこに本心は乗っていないのだ。
彼は、彼の本に、自分の絵をのせた。
私は私の本に、彼の絵をのせて欲しかった。
でも、それはできなかった。
私の本が存在しないから。
画家も作家も変わらない、同じような狭き門のはずだ。
あの頃は、本気でどちらも夢を叶えられると思っていたのだろうか。それとも、どうせどちらも叶わぬ夢を語っていると思っていたのだろうか。
もう覚えていない。
ただ、彼は夢を叶え、私は夢を叶えられなかった。だから、あの約束が消えてしまった。そんな事実だけが重く残っている。
『いつ頃着く?』
スマホが震えた。そうだ、返事をしていなかった。
『もうすぐ着くよ。偉大な画家さんに会えるなんて、緊張するよ』
自分でも嫌な返事だと思う。すぐに桑島からは返信が来た。
『緊張なんてするなよ。画家としてじゃなくて、幼なじみとして会いに来て欲しい』
コーヒーを飲み干して、私は立ち上がった。
苦い。いろんな苦味が残っている。
彼は遠くに行ってしまったと思った。でも、違う。そうじゃないんだ。彼は何にも変わっていないんだ。昔から。私が置いて行かれただけなのかもしれない。
おめでとう、おめでとう、おめでとう。
心の中で何度も練習しながら、私は喫茶店を出た。
0記憶を頼りに、駅を出て少し歩いた場所にある喫茶店を目指す。特に美味しいわけではないのだが、いつでも空いている喫茶店だ。道路沿いを歩いていると見えてきたその店は、案の定、遠目からでもガラガラであることがわかった。
そうまでして、喫茶店に寄らなければならないのか。このまま目的地に向かえば良いのに。
一瞬、そんな思いが頭をよぎる。
しかし、どうしてもこのまま真っ直ぐあの場所に、あの人に会いに、行ける気がしなかった。
ブラックコーヒーを頼んで端の席に座る。ずっとポケットにしまっていたスマホを見ると、あの人からのメッセージが届いていた。
『こっちは準備できてるから、いつでも来て良いよ。久しぶりに会えるのを、楽しみにしています』
穏やかなあの人の顔を思い出すような、シンプルなメッセージ。きっと社交辞令ではない、本当に楽しみにしてくれているのだろう。あの優しい笑顔で、迎えてくれるのだろう。
それなのに、どうしても会いたくないのだ。
私が笑顔で、会える気がしないのだ。
あの人…、桑島澄人(くわじますみと)は、今大人気の画家であり、私の幼なじみである。
昔から絵を描くことが好きで、美術のコンクールではいつも何かしらの賞を取っていた。絵心というものが全く存在しない私にとって、彼の芸術センスは純粋に羨ましいものだった。
一方、口下手でおとなしい彼は、私の文章をよく褒めてくれた。幼い頃から作家を目指していた私は、彼にだけはこっそり自分の作品を見せたものだ。
「もし君が本を出版することになったら、僕に表紙の絵を描かせてくれ」
大真面目な顔をして彼は言ったし、私も
「もちろん。挿絵だって描いてもらうさ」
と大真面目に約束したのである。
彼が美大に進学するために上京してからは長らく連絡をとっていなかったのだが、今月地元に戻って来ると聞き、会うことになったのだ。
彼は、帰ってきた。
有名な画家として、個展を開くために。
そして私は、彼に会いに行く。
彼の友だち兼、ただのサラリーマンとして。
桑島の優しい絵柄は、誰からも愛されていた。こんな田舎の地元だけでなく、東京など都会の方でも何度も個展を開いている。
すっかり遠い存在になってしまった。
彼の活躍は絵だけに留まらない。
少し前に、絵本を出版したという。
喜ばしいことなのだ。幼なじみの活躍というのは。
でも、口では「おめでとう」と言いながらも、そこに本心は乗っていないのだ。
彼は、彼の本に、自分の絵をのせた。
私は私の本に、彼の絵をのせて欲しかった。
でも、それはできなかった。
私の本が存在しないから。
画家も作家も変わらない、同じような狭き門のはずだ。
あの頃は、本気でどちらも夢を叶えられると思っていたのだろうか。それとも、どうせどちらも叶わぬ夢を語っていると思っていたのだろうか。
もう覚えていない。
ただ、彼は夢を叶え、私は夢を叶えられなかった。だから、あの約束が消えてしまった。そんな事実だけが重く残っている。
『いつ頃着く?』
スマホが震えた。そうだ、返事をしていなかった。
『もうすぐ着くよ。偉大な画家さんに会えるなんて、緊張するよ』
自分でも嫌な返事だと思う。すぐに桑島からは返信が来た。
『緊張なんてするなよ。画家としてじゃなくて、幼なじみとして会いに来て欲しい』
コーヒーを飲み干して、私は立ち上がった。
苦い。いろんな苦味が残っている。
彼は遠くに行ってしまったと思った。でも、違う。そうじゃないんだ。彼は何にも変わっていないんだ。昔から。私が置いて行かれただけなのかもしれない。
おめでとう、おめでとう、おめでとう。
心の中で何度も練習しながら、私は喫茶店を出た。
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