だから、もう少しだけ

作家: ながる
作家(かな):

だから、もう少しだけ

更新日: 2023/06/02 21:46
現代ドラマ

本編


 忘れ方を教えて欲しい。
 別れ際、貴方はそう言った。憔悴しきって、腫れぼったい目で、じっとテーブルの上の冷めたコーヒーを見ながら。
 それを私に聞かれても。そう口にすれば、君は冷たいと皮肉気に笑うのだろうか。

「新しいコを探したら?」

 思ったよりは優しい声が出せた。もう時間がない。
 次の電車に乗らないと、飛行機に間に合わなくなる。

「そんな、こと」
「じゃあ、忘れなきゃいいのよ」

 伝票を掴むと貴方の手が一瞬だけ上がって、すぐに諦めたようにテーブルに乗せられた。

「じゃあね」

 小さなトランクを引いてレジに向かう。私は振り返らなかった。
 振り返らなくても彼がどんな顔をしているのかわかる。長い付き合いだ。
 ドアベルの音は軽やかで、夏の日差しは痛いくらいに私を突き刺した。
 罪悪感を感じない訳ではない。でも、仕事を断る理由にはならなかっただけの話。遠距離が嫌なら別れるしかない。
 君は冷たい。よく言われた。

 ひとりの夜は寂しいかとも思ったけれど、慣れない環境に疲れて朝はあっという間にやってきた。やはり私は冷たいのかもしれない。
 少しだけ反省した頃、貴方からの遠慮がちなラインがスマホの画面に表示された。

 ――そちらの環境には慣れたか

 スタンプもない簡潔な文字列が貴方の今を窺わせた。

 ――だいぶ慣れた。週末には1度帰る。

 私も簡潔に返す。気がつけばひと月を越えようとしていた。飛行機ならば1時間と少し。日帰りも出来る距離だ。
 久しぶりの湿った暑さに涼を求めて立ち寄ったホームセンターで、私はうっかり子猫を買ってしまった。ボーナスがパーだ。そのまま彼の部屋に直行する。
 真新しいキャリーケースに貴方は目を丸くする。黙ってそれを押し付けると、私はソファの定位置に身を沈めた。

「これで淋しくないでしょ。私がいなくても、猫さえいればいいんだから」

 貴方はキャリーケースをそっと置いて、痛いくらいに私を抱きしめる。
 比べられるものじゃない。涙声に苦笑した。

 泣き虫な貴方は大往生した飼い猫に心を痛めていた。置いていくのは心配だったけど、時間は待ってはくれない。遠距離だってきっと大丈夫。子猫の世話で浮気も出来ないでしょう? 今の仕事は気に入っているの。毎日写真を送って?
 ね。だから、もう少しだけ。
0