翔《と》べなくなった天使
翔《と》べなくなった天使
更新日: 2023/06/02 21:46現代ファンタジー
本編
何も無い、白い世界。
遠く広がり、行き着く場所もわからない。
前後左右、上下さえもわからなくなり、手を伸ばして、ようやく前がわかる。
果てがあるのかすら、わからない。
暑さも寒さも感じず、いかなる匂いもしない。
微かな音も聞こえず、白すぎる世界に目が見えているのかもわからなくなる。
五感すべてが全く意味をなさない世界。
そんな中を一人の少女が、ゆっくり歩いている。
ふらふら、ゆらゆら。
時折、倒れそうになりながら、少しずつ前に進んでいた。
純白のワンピースからは、細くて長い足が出ており、必死になって自らの体を支え、長い両腕は己を守るように体を抱き締めている。
少女に何があったのか。
その背中から生える大きな白い翼は、中程でポッキリと折れ、痛々しい姿となっていた。
愛らしかった笑顔は消え、痛みを堪えているのか、翼を折られたことで絶望しているのか、または、どちらでもあるのか、苦痛に満ちた表情をしている。
ふらりとその華奢な体が揺れ、遂にその場に座り込んだ。
立ち上がろうと、足元に手をついたものの、既に限界を超えていたのだろう。
すぐにガクンと崩れ落ち、横たわってしまった。
少女は人を笑顔にする天使だった。
ただ少女が微笑むだけで、その周囲には色とりどりの花が咲き誇り、瑞々しい香りが人々に幸せを感じさせる。
苦痛を感じている人には寄り添い、その心が温まるまで包み、喜びを感じている人には何倍にもして、歓喜の鐘の音を響かせた。
そんな天使から全てが奪われ、残ったものは折れて輝きを失った翼だけだ。
ある日突然、少女に凶器が飛んできた。
直前まで笑っていた少女がその凶器に気付くはずもなく、いや、もし気が付いたとしても避け方がわからず、結局は貫かれることになっただろう。
その凶器は一度飛んできただけで終わるかと思いきや、一つ、また一つと増えていき、最終的には立派だった翼が折れてしまうほどの攻撃を受けた。
少女は何が起こったのかわからず、混乱の中でようやく感じたことが、折られた翼の強い痛みと、周囲から消えた人の気配だった。
翔《と》ぶことができなくなった少女は、絶望の谷へと落とされ、体が裂けてしまいそうなほどの痛みに耐えようとした。
そう、一人で耐えようとしたのだ。
つい先ほどまでの純粋で無垢だった純白の天使は、今やボロボロとなり、深くて暗い谷底へと落ちていく。
翔ぶことも試みた。
だが、完全に折れてしまった翼はいうことを聞かず、もがいても、もがいても、決して動くことはなかった。
そして、目を閉じ、諦めかけた時、不意に全てが無になり、この真っ白な世界へと放り出されていた。
わけがわからなかった。
闇へと落ちていく。
これで終わってしまう。
それだけが、わかった。
◆
少女が倒れてしまってから、どれほどの時間が経っただろうか。
長くも短くも感じられた時間、少女は身動き一つせず、ただジッと痛みに耐え、悲しみを堪えた。
どうして、こんなことになってしまったのだろう。
どうして、攻撃されてしまったのだろう。
人に嫌な思いにさせてしまったのかもしれない。
良かれと思ってやっていたことが、実際は人を傷つけていたのかもしれない。
でも、いくら振り返っても、少女には具体的な原因がわからなかった。
直前まで少女の前では、確かに人が笑っていたのだ。
楽しそうに、嬉しそうに、幸せそうに。
それにも関わらず、何故こんなことになったのか。
攻撃はどこからが始まりだったか。
どの方向から飛んできたのかもわからない。
ただ、少女がわからなくても、誰かが少女を攻撃して、美しい翼を折ったという事実に変わりはない。
折れた翼を自分で治すことはできない。
そもそも治るのかもわからない。
これだけ傷ついているのに、存在が無くなることはない。
それが少女には残酷に思えた。
これほど辛く痛い思いをしているのだから、もういっその事消えてしまいたい。
治らないのだったら、完全に壊してしまってほしい。
少女は心の中で何度もそう願った。
強く願っているつもりなのに、一向に状況は変わらなかった。
背中にある折れた翼の痛みは酷いままだが、だんだん同じ体勢で横になっていることも辛くなってきた。
なるべく痛みが強くならないよう、ゆっくりと起き上がり、今度は膝を抱えて座り込む。
膝に頭を乗せて、ギュッと両腕の力を強めて小さくなった。
少女の肩から、漆黒の艶やかな髪がサラサラと零れ落ちる。
音のない世界なのに、今にも聞こえてきそうな美しい髪の流れる音。
真っ直ぐで癖のない髪は、少女の心根そのもののようだった。
小さくなりながらも、少女は願った。
壊して。
もう終わりにして。
壊してさえくれたら、もう何も望まないから。
神様。
お願い、神様。
そこにいるのでしょう?
聞こえているのでしょう?
いつまで、こんなに辛い思いをしなくてはいけないの。
お願い。
お願いします────。
だがいつしか、そう願っても、叶えられることはないのだと気付き、これまで必死に堪えていた涙が、少女の目から一粒零れた。
そして、次から次へと溢れ始め、少女の周りに少しずつ溜まり始めた。
少女を囲うように存在した、卵の形をした硝子の殻。
その中に清涼な雫が、一滴また一滴と流れる。
流す涙の分だけ、殻の中に溜まる涙も増え、次第に少女の体も浸かり始めた。
美しかった白い翼も涙に浸かっていく。
無色透明で清らかな涙が傷ついた翼を包み、少女からは温もりと痛みを奪い始める。
殻に溜まった涙は、少女からあらゆる苦痛を奪っていった。
痛みも悲しみも、絶望さえも。
そうして、いつの間にか少女の頭までもがすっぽりと覆われ、硝子の殻は涙で一杯になった。
ふわふわと髪が波打ち、白い翼がまるで翔んでいた時のように揺らぐ。
未だに折れたままの翼からは痛みが消えていた。
その代わり、少女の意識も揺らぎ始め、ハッキリしていた思考も霧散してしまう。
自分に何が起こったのかもあやふやになっていき、最後には少女の意識まで、涙に溶けて消えた。
◆
何も無い、白い世界。
そこに、硝子の殻に入って蹲っている、翼の折れた少女が一人。
自らが流した涙で、自身を全てから守るために閉じこもっている。
だが、少女しかいなかった世界に、突然、一人の少年が現れた。
少女と歳は同じくらいのその少年は、色彩が極端に少ない。
透き通るような白い肌に、長い銀髪。
そして、銀色の瞳も加わると、まるで精巧に作られた人形のようだ。
少女には温もりを感じさせる何かがあったが、少年には温度がない。
その色合いのせいなのか、表情が欠落しているせいか。
どちらかはわからないが、酷く冷たいもののようにも見える。
少年は硝子の殻に始めから気付いていたのか、真っ直ぐ迷うことなく近づき、その傍らに膝をついて、両手で殻に触れた。
ゆっくり、そっと、少年は殻を撫で始めた。
その表情は変わらず冷たいのに、手つきは慎重で優しげだ。
少年は中で蹲る少女の様子を気にしているのか、時折、手を止めてじっくり眺めては、また撫でるということを繰り返している。
暫く、少年が撫で続けていると、殻いっぱいに溜まっていた涙が、ふるんと波打ち、少しずつ少しずつ減り始めた。
少年が撫でれば、その分、涙が減って少女の体が顕になっていく。
そうして、折れた翼が現れた時だった。
少女の肩が震えた瞬間、せっかく減ってきていた涙はものすごい勢いで溜まり始め、あっという間に元の状態に戻ってしまった。
手を離していた少年は目を見開いたものの、すぐにまた両手を当てて、撫で始める。
やはり慎重に、優しく。
慌てず、焦らず、ゆっくりと。
その後、涙は減ったり増えたりを繰り返し、少年はそれでも変わらず、ずっと撫で続けた。
◆
どれくらいそうしていたのだろう。
少女の翼が現れ、また元に戻ってしまうのかと思われた時だった。
今まで微動だにしなかった少女の顔が、ゆっくりと上がり、ようやく撫で続ける少年の存在に気付いた。
全身に力が入り、足を抱えている手がその強さのあまり真っ白になる。
怯えるような瞳からは、また一粒涙が落ちた。
他者が恐ろしいと思っているはずの少女であるにも関わらず、何故か少年から目を逸らすことができない。
銀の色彩を持つ美しい少年は、少女と目を合わせたまま、またゆっくりと殻を撫で始めたのだ。
驚き固まったままの少女の目からは、もう涙は流れていない。
少女はジッと少年の動きに魅入っていた。
これまで見たことのない色彩を持つ少年。
無表情のまま、淡々と殻を撫で、その度に少女の周りから涙が消えていく。
すっかり顕になった翼は折れているものの、以前よりも痛みが引いてきていた。
目の前にいる少年が何かをしたのだろうか。
そもそも何もなかった世界に、どうして少年は現れることができたのか。
少女は少年についてわからないことばかりなのに、最初の怯えはすぐに消え、不思議と恐怖感を抱くことはなかった。
そして、遂に少女の周りから涙がすっかり消え、残されたのは蹲っている少女と硝子の殻だけ。
その殻を少年は軽く叩いた。
すると、どれだけ涙を溜めてもビクともしなかった殻に、小さな罅《ひび》が入った。
更に少年はあくまでも優しく叩く。
少しずつ広がる罅。
最後のひと叩きと言わんばかりに、少しだけ強く叩かれた瞬間、音もなくその殻は砕け散った。
少年は動じることなく、少女の背中側に回り、今度は折れた翼を撫で始めた。
殻に触れていた時よりも、更に慎重に、優しく。
柔らかい羽の一本一本を整えるかのように。
時間をかけて撫でられた翼は、いつの間にか元の美しい翼へと戻っていた。
治ると思ってなかったのに、少年は簡単に治してしまった。
殻に閉じこもった少女を簡単に出してしまった。
「……神様?」
少女は呟いた。
それが音となったかはわからない。
ただ、少女の口の中でだけで言葉になったのかもしれない。
そんな少女の問いに、少年は答えることなく、少女の正面に来て座った。
そして、華奢な少女の手をそっと握り締めた。
覗き込むように少年は少女を見つめる。
何も言わず、無表情のまま。
不意に、少女の中で、大切な人の顔が浮かんだ。
「……聖《ひじり》?」
この世界に来てから、少女は初めて音を聞いた。
自らが発した、よく知る名前。
すると、銀色を持つ少年は初めて口元を緩め、優しく微笑んだ。
「聖凪《せいな》。ここは君の世界じゃない。待っている人たちがいるよ」
凛と澄んだ少年──聖の声が、少女──聖凪の耳に届いた。
「聖凪……?」
「君は聖凪。思い出して。君の近くにいた人を。君を大切に思っている人たちを。君が大切にしてきた人たちを」
「私を大切に……? 私が大切に……?」
聖凪はジッと、自分と同じ字を持つ聖の顔を見たまま、自分の頭の中をぐるぐるとかき混ぜ、いろいろなものを手繰り寄せた。
その瞬間、急速に、聖凪の記憶が蘇り、真っ白だった世界に不規則な色彩が入り始めた。
驚いて周囲に目をやった後、目の前の聖を見直すと、いつの間にかいたはずの銀色をした聖の姿はなかった。
握られていた手の感触だけを残して。
ゆっくりと世界が変わっていく。
天使の姿をした聖凪は、可愛らしいピンク色のパジャマ姿へと変わった。
次第に、聖凪の意識が遠のいていく。
ゆらゆらと揺れる体も、思うようにはならなくなっていった。
その感覚になんとなく目を瞑った、次の瞬間、聖凪の鼻をいい匂いが掠めた。
何も感じなかった体に、温かくて柔らかいものを感じた。
カタンという小さな音が聞こえた。
恐る恐る目を開くと、そこは聖凪の部屋のベッドの上で、聖凪はそこに寝ている状態だった。
今までの世界は全て夢だったのか。
それとも、こちらが夢なのか。
見たことのない銀色の色彩を持つ少年は、聖凪を殻から出し、翼を治してくれた。
顔は幼馴染の聖だったように思うが、聖にあんな力はないし、何より銀色ではない。
再び、カタンと音がして、そちらを見てみると、食器をテーブルに置いている女性がいた。
聖凪はこの人をよく知っている。
大好きな人。
「お母さん」
「聖凪……!」
すごい勢いで顔を上げた母親は、慌てて聖凪の元へ駆け寄り、その勢いが嘘だったかのように、ゆっくりと手を伸ばしてきた。
「お母さん」
「聖凪……わかるの?」
「え?」
「お母さんが、わかる?」
「当たり前じゃない。何を言ってるの?」
聖凪は小さく笑った。
だが、母親は笑わず、代わりにポロポロと涙を流し始めた。
「お母さん? どうしたの?」
「あなた、ずっと寝たまま、起きなかったのよ」
「……え?」
「聖凪。あなたは、少し前から学校で嫌な思いをしていたらしいの。ある日、怪我をさせられて、病院に運ばれたのよ。幸い酷い怪我ではなかったのだけど……あなたは眠ったままになった」
聖凪は『怪我』と聞いて、すぐに折れた翼を思い出した。
「精神的なショックを受けたんだろうって、お医者さんに言われたわ。今、聖凪は心の傷を治そうとしているんじゃないかって」
その言葉に、殻に閉じこもった自分を思い出した。
「もう、大丈夫」
そう。
根拠はないけれど、聖凪はもう心の深い傷は治ったと感じていた。
全てが消えたわけではないだろう。
それでも、もう大丈夫だと言っていい。
そんな気がした。
あの聖に似た少年が治してくれた翼は、きっと聖凪の心そのものだったのだ。
「今まで、ありがとう。心配かけて、ごめんなさい」
期間はわからないが、母親の様子から、決して短い期間ではなかったのだろうと予想がつく。
「いいのよ。あなたが大丈夫だと言ってくれるのなら、お母さんは嬉しいわ」
「あの、それで、聖は……?」
「聖くんは毎日来てくれてるのよ。多分、今日ももうすぐ」
母親が言いかけたそのタイミングで、部屋のドアがノックされた。
「ほら、来てくれた」
クスッと笑った母親の頬は涙で濡れていたけど、表情はとても穏やかで、聖凪は気付かれないようにホッと息を吐いた。
母親が開けてくれたドアから、聖がひょっこりと顔を出し、大きく目を見開いた。
「聖、ありがとう」
ごめん、じゃなくて、ありがとう。
「……聖凪」
「助けてくれて、治してくれて、ありがとう」
「……は? お前、何言ってんの?」
怪訝な表情をしながらも、聖は聖凪の近くまで来て、椅子に座った。
聖凪はそれを見ながら、また笑った。
そうだ。
聖はあんなに穏やかな言葉遣いじゃない。
少し乱暴な男の子っぽい話し方だ。
「何でもない」
「変なやつ」
「でも、ありがとう」
毎日来てくれていたのなら、とても心配してくれていたのだろう。
「別に。俺、何もしてねぇし」
ふいっとそっぽを向いた聖の耳は真っ赤になっている。
「たくさんの人に、お礼言わなくちゃ」
「そうだな。みんな、待ってるぞ。さっさと元気になって、戻ってこい」
「うん、そうだね」
寝たままだった体は、確かに思うようには動かない。
今度は体の方を戻していかなくては、元の生活には戻れないだろう。
問題だって、恐らく解決したわけではないだろう。
でも、今なら冷静に向き合えるはずだ。
「神様、ありがとう」
「は?」
「何でもない」
銀色の色彩を持つ美しい少年。
聖の姿をした神様。
それは聖凪の心が作り出した夢の世界だったのかもしれない。
だが、心の傷が軽くなっているのも事実。
あれは、きっと────。
*終*
0遠く広がり、行き着く場所もわからない。
前後左右、上下さえもわからなくなり、手を伸ばして、ようやく前がわかる。
果てがあるのかすら、わからない。
暑さも寒さも感じず、いかなる匂いもしない。
微かな音も聞こえず、白すぎる世界に目が見えているのかもわからなくなる。
五感すべてが全く意味をなさない世界。
そんな中を一人の少女が、ゆっくり歩いている。
ふらふら、ゆらゆら。
時折、倒れそうになりながら、少しずつ前に進んでいた。
純白のワンピースからは、細くて長い足が出ており、必死になって自らの体を支え、長い両腕は己を守るように体を抱き締めている。
少女に何があったのか。
その背中から生える大きな白い翼は、中程でポッキリと折れ、痛々しい姿となっていた。
愛らしかった笑顔は消え、痛みを堪えているのか、翼を折られたことで絶望しているのか、または、どちらでもあるのか、苦痛に満ちた表情をしている。
ふらりとその華奢な体が揺れ、遂にその場に座り込んだ。
立ち上がろうと、足元に手をついたものの、既に限界を超えていたのだろう。
すぐにガクンと崩れ落ち、横たわってしまった。
少女は人を笑顔にする天使だった。
ただ少女が微笑むだけで、その周囲には色とりどりの花が咲き誇り、瑞々しい香りが人々に幸せを感じさせる。
苦痛を感じている人には寄り添い、その心が温まるまで包み、喜びを感じている人には何倍にもして、歓喜の鐘の音を響かせた。
そんな天使から全てが奪われ、残ったものは折れて輝きを失った翼だけだ。
ある日突然、少女に凶器が飛んできた。
直前まで笑っていた少女がその凶器に気付くはずもなく、いや、もし気が付いたとしても避け方がわからず、結局は貫かれることになっただろう。
その凶器は一度飛んできただけで終わるかと思いきや、一つ、また一つと増えていき、最終的には立派だった翼が折れてしまうほどの攻撃を受けた。
少女は何が起こったのかわからず、混乱の中でようやく感じたことが、折られた翼の強い痛みと、周囲から消えた人の気配だった。
翔《と》ぶことができなくなった少女は、絶望の谷へと落とされ、体が裂けてしまいそうなほどの痛みに耐えようとした。
そう、一人で耐えようとしたのだ。
つい先ほどまでの純粋で無垢だった純白の天使は、今やボロボロとなり、深くて暗い谷底へと落ちていく。
翔ぶことも試みた。
だが、完全に折れてしまった翼はいうことを聞かず、もがいても、もがいても、決して動くことはなかった。
そして、目を閉じ、諦めかけた時、不意に全てが無になり、この真っ白な世界へと放り出されていた。
わけがわからなかった。
闇へと落ちていく。
これで終わってしまう。
それだけが、わかった。
◆
少女が倒れてしまってから、どれほどの時間が経っただろうか。
長くも短くも感じられた時間、少女は身動き一つせず、ただジッと痛みに耐え、悲しみを堪えた。
どうして、こんなことになってしまったのだろう。
どうして、攻撃されてしまったのだろう。
人に嫌な思いにさせてしまったのかもしれない。
良かれと思ってやっていたことが、実際は人を傷つけていたのかもしれない。
でも、いくら振り返っても、少女には具体的な原因がわからなかった。
直前まで少女の前では、確かに人が笑っていたのだ。
楽しそうに、嬉しそうに、幸せそうに。
それにも関わらず、何故こんなことになったのか。
攻撃はどこからが始まりだったか。
どの方向から飛んできたのかもわからない。
ただ、少女がわからなくても、誰かが少女を攻撃して、美しい翼を折ったという事実に変わりはない。
折れた翼を自分で治すことはできない。
そもそも治るのかもわからない。
これだけ傷ついているのに、存在が無くなることはない。
それが少女には残酷に思えた。
これほど辛く痛い思いをしているのだから、もういっその事消えてしまいたい。
治らないのだったら、完全に壊してしまってほしい。
少女は心の中で何度もそう願った。
強く願っているつもりなのに、一向に状況は変わらなかった。
背中にある折れた翼の痛みは酷いままだが、だんだん同じ体勢で横になっていることも辛くなってきた。
なるべく痛みが強くならないよう、ゆっくりと起き上がり、今度は膝を抱えて座り込む。
膝に頭を乗せて、ギュッと両腕の力を強めて小さくなった。
少女の肩から、漆黒の艶やかな髪がサラサラと零れ落ちる。
音のない世界なのに、今にも聞こえてきそうな美しい髪の流れる音。
真っ直ぐで癖のない髪は、少女の心根そのもののようだった。
小さくなりながらも、少女は願った。
壊して。
もう終わりにして。
壊してさえくれたら、もう何も望まないから。
神様。
お願い、神様。
そこにいるのでしょう?
聞こえているのでしょう?
いつまで、こんなに辛い思いをしなくてはいけないの。
お願い。
お願いします────。
だがいつしか、そう願っても、叶えられることはないのだと気付き、これまで必死に堪えていた涙が、少女の目から一粒零れた。
そして、次から次へと溢れ始め、少女の周りに少しずつ溜まり始めた。
少女を囲うように存在した、卵の形をした硝子の殻。
その中に清涼な雫が、一滴また一滴と流れる。
流す涙の分だけ、殻の中に溜まる涙も増え、次第に少女の体も浸かり始めた。
美しかった白い翼も涙に浸かっていく。
無色透明で清らかな涙が傷ついた翼を包み、少女からは温もりと痛みを奪い始める。
殻に溜まった涙は、少女からあらゆる苦痛を奪っていった。
痛みも悲しみも、絶望さえも。
そうして、いつの間にか少女の頭までもがすっぽりと覆われ、硝子の殻は涙で一杯になった。
ふわふわと髪が波打ち、白い翼がまるで翔んでいた時のように揺らぐ。
未だに折れたままの翼からは痛みが消えていた。
その代わり、少女の意識も揺らぎ始め、ハッキリしていた思考も霧散してしまう。
自分に何が起こったのかもあやふやになっていき、最後には少女の意識まで、涙に溶けて消えた。
◆
何も無い、白い世界。
そこに、硝子の殻に入って蹲っている、翼の折れた少女が一人。
自らが流した涙で、自身を全てから守るために閉じこもっている。
だが、少女しかいなかった世界に、突然、一人の少年が現れた。
少女と歳は同じくらいのその少年は、色彩が極端に少ない。
透き通るような白い肌に、長い銀髪。
そして、銀色の瞳も加わると、まるで精巧に作られた人形のようだ。
少女には温もりを感じさせる何かがあったが、少年には温度がない。
その色合いのせいなのか、表情が欠落しているせいか。
どちらかはわからないが、酷く冷たいもののようにも見える。
少年は硝子の殻に始めから気付いていたのか、真っ直ぐ迷うことなく近づき、その傍らに膝をついて、両手で殻に触れた。
ゆっくり、そっと、少年は殻を撫で始めた。
その表情は変わらず冷たいのに、手つきは慎重で優しげだ。
少年は中で蹲る少女の様子を気にしているのか、時折、手を止めてじっくり眺めては、また撫でるということを繰り返している。
暫く、少年が撫で続けていると、殻いっぱいに溜まっていた涙が、ふるんと波打ち、少しずつ少しずつ減り始めた。
少年が撫でれば、その分、涙が減って少女の体が顕になっていく。
そうして、折れた翼が現れた時だった。
少女の肩が震えた瞬間、せっかく減ってきていた涙はものすごい勢いで溜まり始め、あっという間に元の状態に戻ってしまった。
手を離していた少年は目を見開いたものの、すぐにまた両手を当てて、撫で始める。
やはり慎重に、優しく。
慌てず、焦らず、ゆっくりと。
その後、涙は減ったり増えたりを繰り返し、少年はそれでも変わらず、ずっと撫で続けた。
◆
どれくらいそうしていたのだろう。
少女の翼が現れ、また元に戻ってしまうのかと思われた時だった。
今まで微動だにしなかった少女の顔が、ゆっくりと上がり、ようやく撫で続ける少年の存在に気付いた。
全身に力が入り、足を抱えている手がその強さのあまり真っ白になる。
怯えるような瞳からは、また一粒涙が落ちた。
他者が恐ろしいと思っているはずの少女であるにも関わらず、何故か少年から目を逸らすことができない。
銀の色彩を持つ美しい少年は、少女と目を合わせたまま、またゆっくりと殻を撫で始めたのだ。
驚き固まったままの少女の目からは、もう涙は流れていない。
少女はジッと少年の動きに魅入っていた。
これまで見たことのない色彩を持つ少年。
無表情のまま、淡々と殻を撫で、その度に少女の周りから涙が消えていく。
すっかり顕になった翼は折れているものの、以前よりも痛みが引いてきていた。
目の前にいる少年が何かをしたのだろうか。
そもそも何もなかった世界に、どうして少年は現れることができたのか。
少女は少年についてわからないことばかりなのに、最初の怯えはすぐに消え、不思議と恐怖感を抱くことはなかった。
そして、遂に少女の周りから涙がすっかり消え、残されたのは蹲っている少女と硝子の殻だけ。
その殻を少年は軽く叩いた。
すると、どれだけ涙を溜めてもビクともしなかった殻に、小さな罅《ひび》が入った。
更に少年はあくまでも優しく叩く。
少しずつ広がる罅。
最後のひと叩きと言わんばかりに、少しだけ強く叩かれた瞬間、音もなくその殻は砕け散った。
少年は動じることなく、少女の背中側に回り、今度は折れた翼を撫で始めた。
殻に触れていた時よりも、更に慎重に、優しく。
柔らかい羽の一本一本を整えるかのように。
時間をかけて撫でられた翼は、いつの間にか元の美しい翼へと戻っていた。
治ると思ってなかったのに、少年は簡単に治してしまった。
殻に閉じこもった少女を簡単に出してしまった。
「……神様?」
少女は呟いた。
それが音となったかはわからない。
ただ、少女の口の中でだけで言葉になったのかもしれない。
そんな少女の問いに、少年は答えることなく、少女の正面に来て座った。
そして、華奢な少女の手をそっと握り締めた。
覗き込むように少年は少女を見つめる。
何も言わず、無表情のまま。
不意に、少女の中で、大切な人の顔が浮かんだ。
「……聖《ひじり》?」
この世界に来てから、少女は初めて音を聞いた。
自らが発した、よく知る名前。
すると、銀色を持つ少年は初めて口元を緩め、優しく微笑んだ。
「聖凪《せいな》。ここは君の世界じゃない。待っている人たちがいるよ」
凛と澄んだ少年──聖の声が、少女──聖凪の耳に届いた。
「聖凪……?」
「君は聖凪。思い出して。君の近くにいた人を。君を大切に思っている人たちを。君が大切にしてきた人たちを」
「私を大切に……? 私が大切に……?」
聖凪はジッと、自分と同じ字を持つ聖の顔を見たまま、自分の頭の中をぐるぐるとかき混ぜ、いろいろなものを手繰り寄せた。
その瞬間、急速に、聖凪の記憶が蘇り、真っ白だった世界に不規則な色彩が入り始めた。
驚いて周囲に目をやった後、目の前の聖を見直すと、いつの間にかいたはずの銀色をした聖の姿はなかった。
握られていた手の感触だけを残して。
ゆっくりと世界が変わっていく。
天使の姿をした聖凪は、可愛らしいピンク色のパジャマ姿へと変わった。
次第に、聖凪の意識が遠のいていく。
ゆらゆらと揺れる体も、思うようにはならなくなっていった。
その感覚になんとなく目を瞑った、次の瞬間、聖凪の鼻をいい匂いが掠めた。
何も感じなかった体に、温かくて柔らかいものを感じた。
カタンという小さな音が聞こえた。
恐る恐る目を開くと、そこは聖凪の部屋のベッドの上で、聖凪はそこに寝ている状態だった。
今までの世界は全て夢だったのか。
それとも、こちらが夢なのか。
見たことのない銀色の色彩を持つ少年は、聖凪を殻から出し、翼を治してくれた。
顔は幼馴染の聖だったように思うが、聖にあんな力はないし、何より銀色ではない。
再び、カタンと音がして、そちらを見てみると、食器をテーブルに置いている女性がいた。
聖凪はこの人をよく知っている。
大好きな人。
「お母さん」
「聖凪……!」
すごい勢いで顔を上げた母親は、慌てて聖凪の元へ駆け寄り、その勢いが嘘だったかのように、ゆっくりと手を伸ばしてきた。
「お母さん」
「聖凪……わかるの?」
「え?」
「お母さんが、わかる?」
「当たり前じゃない。何を言ってるの?」
聖凪は小さく笑った。
だが、母親は笑わず、代わりにポロポロと涙を流し始めた。
「お母さん? どうしたの?」
「あなた、ずっと寝たまま、起きなかったのよ」
「……え?」
「聖凪。あなたは、少し前から学校で嫌な思いをしていたらしいの。ある日、怪我をさせられて、病院に運ばれたのよ。幸い酷い怪我ではなかったのだけど……あなたは眠ったままになった」
聖凪は『怪我』と聞いて、すぐに折れた翼を思い出した。
「精神的なショックを受けたんだろうって、お医者さんに言われたわ。今、聖凪は心の傷を治そうとしているんじゃないかって」
その言葉に、殻に閉じこもった自分を思い出した。
「もう、大丈夫」
そう。
根拠はないけれど、聖凪はもう心の深い傷は治ったと感じていた。
全てが消えたわけではないだろう。
それでも、もう大丈夫だと言っていい。
そんな気がした。
あの聖に似た少年が治してくれた翼は、きっと聖凪の心そのものだったのだ。
「今まで、ありがとう。心配かけて、ごめんなさい」
期間はわからないが、母親の様子から、決して短い期間ではなかったのだろうと予想がつく。
「いいのよ。あなたが大丈夫だと言ってくれるのなら、お母さんは嬉しいわ」
「あの、それで、聖は……?」
「聖くんは毎日来てくれてるのよ。多分、今日ももうすぐ」
母親が言いかけたそのタイミングで、部屋のドアがノックされた。
「ほら、来てくれた」
クスッと笑った母親の頬は涙で濡れていたけど、表情はとても穏やかで、聖凪は気付かれないようにホッと息を吐いた。
母親が開けてくれたドアから、聖がひょっこりと顔を出し、大きく目を見開いた。
「聖、ありがとう」
ごめん、じゃなくて、ありがとう。
「……聖凪」
「助けてくれて、治してくれて、ありがとう」
「……は? お前、何言ってんの?」
怪訝な表情をしながらも、聖は聖凪の近くまで来て、椅子に座った。
聖凪はそれを見ながら、また笑った。
そうだ。
聖はあんなに穏やかな言葉遣いじゃない。
少し乱暴な男の子っぽい話し方だ。
「何でもない」
「変なやつ」
「でも、ありがとう」
毎日来てくれていたのなら、とても心配してくれていたのだろう。
「別に。俺、何もしてねぇし」
ふいっとそっぽを向いた聖の耳は真っ赤になっている。
「たくさんの人に、お礼言わなくちゃ」
「そうだな。みんな、待ってるぞ。さっさと元気になって、戻ってこい」
「うん、そうだね」
寝たままだった体は、確かに思うようには動かない。
今度は体の方を戻していかなくては、元の生活には戻れないだろう。
問題だって、恐らく解決したわけではないだろう。
でも、今なら冷静に向き合えるはずだ。
「神様、ありがとう」
「は?」
「何でもない」
銀色の色彩を持つ美しい少年。
聖の姿をした神様。
それは聖凪の心が作り出した夢の世界だったのかもしれない。
だが、心の傷が軽くなっているのも事実。
あれは、きっと────。
*終*