翔《と》べなくなった天使

翔《と》べなくなった天使

更新日: 2023/06/02 21:46
現代ファンタジー

本編


何も無い、白い世界。

遠く広がり、行き着く場所もわからない。

前後左右、上下さえもわからなくなり、手を伸ばして、ようやく前がわかる。

果てがあるのかすら、わからない。

暑さも寒さも感じず、いかなる匂いもしない。

微かな音も聞こえず、白すぎる世界に目が見えているのかもわからなくなる。

五感すべてが全く意味をなさない世界。

そんな中を一人の少女が、ゆっくり歩いている。

ふらふら、ゆらゆら。

時折、倒れそうになりながら、少しずつ前に進んでいた。

純白のワンピースからは、細くて長い足が出ており、必死になって自らの体を支え、長い両腕は己を守るように体を抱き締めている。

少女に何があったのか。

その背中から生える大きな白い翼は、中程でポッキリと折れ、痛々しい姿となっていた。

愛らしかった笑顔は消え、痛みを堪えているのか、翼を折られたことで絶望しているのか、または、どちらでもあるのか、苦痛に満ちた表情をしている。

ふらりとその華奢な体が揺れ、遂にその場に座り込んだ。

立ち上がろうと、足元に手をついたものの、既に限界を超えていたのだろう。

すぐにガクンと崩れ落ち、横たわってしまった。

少女は人を笑顔にする天使だった。

ただ少女が微笑むだけで、その周囲には色とりどりの花が咲き誇り、瑞々しい香りが人々に幸せを感じさせる。

苦痛を感じている人には寄り添い、その心が温まるまで包み、喜びを感じている人には何倍にもして、歓喜の鐘の音を響かせた。

そんな天使から全てが奪われ、残ったものは折れて輝きを失った翼だけだ。

ある日突然、少女に凶器が飛んできた。

直前まで笑っていた少女がその凶器に気付くはずもなく、いや、もし気が付いたとしても避け方がわからず、結局は貫かれることになっただろう。

その凶器は一度飛んできただけで終わるかと思いきや、一つ、また一つと増えていき、最終的には立派だった翼が折れてしまうほどの攻撃を受けた。

少女は何が起こったのかわからず、混乱の中でようやく感じたことが、折られた翼の強い痛みと、周囲から消えた人の気配だった。

翔《と》ぶことができなくなった少女は、絶望の谷へと落とされ、体が裂けてしまいそうなほどの痛みに耐えようとした。

そう、一人で耐えようとしたのだ。

つい先ほどまでの純粋で無垢だった純白の天使は、今やボロボロとなり、深くて暗い谷底へと落ちていく。

翔ぶことも試みた。

だが、完全に折れてしまった翼はいうことを聞かず、もがいても、もがいても、決して動くことはなかった。

そして、目を閉じ、諦めかけた時、不意に全てが無になり、この真っ白な世界へと放り出されていた。

わけがわからなかった。

闇へと落ちていく。

これで終わってしまう。

それだけが、わかった。




少女が倒れてしまってから、どれほどの時間が経っただろうか。

長くも短くも感じられた時間、少女は身動き一つせず、ただジッと痛みに耐え、悲しみを堪えた。

どうして、こんなことになってしまったのだろう。

どうして、攻撃されてしまったのだろう。

人に嫌な思いにさせてしまったのかもしれない。

良かれと思ってやっていたことが、実際は人を傷つけていたのかもしれない。

でも、いくら振り返っても、少女には具体的な原因がわからなかった。

直前まで少女の前では、確かに人が笑っていたのだ。

楽しそうに、嬉しそうに、幸せそうに。

それにも関わらず、何故こんなことになったのか。

攻撃はどこからが始まりだったか。

どの方向から飛んできたのかもわからない。

ただ、少女がわからなくても、誰かが少女を攻撃して、美しい翼を折ったという事実に変わりはない。

折れた翼を自分で治すことはできない。

そもそも治るのかもわからない。

これだけ傷ついているのに、存在が無くなることはない。

それが少女には残酷に思えた。

これほど辛く痛い思いをしているのだから、もういっその事消えてしまいたい。

治らないのだったら、完全に壊してしまってほしい。

少女は心の中で何度もそう願った。

強く願っているつもりなのに、一向に状況は変わらなかった。

背中にある折れた翼の痛みは酷いままだが、だんだん同じ体勢で横になっていることも辛くなってきた。

なるべく痛みが強くならないよう、ゆっくりと起き上がり、今度は膝を抱えて座り込む。

膝に頭を乗せて、ギュッと両腕の力を強めて小さくなった。

少女の肩から、漆黒の艶やかな髪がサラサラと零れ落ちる。

音のない世界なのに、今にも聞こえてきそうな美しい髪の流れる音。

真っ直ぐで癖のない髪は、少女の心根そのもののようだった。

小さくなりながらも、少女は願った。

壊して。

もう終わりにして。

壊してさえくれたら、もう何も望まないから。

神様。

お願い、神様。

そこにいるのでしょう?

聞こえているのでしょう?

いつまで、こんなに辛い思いをしなくてはいけないの。

お願い。

お願いします────。

だがいつしか、そう願っても、叶えられることはないのだと気付き、これまで必死に堪えていた涙が、少女の目から一粒零れた。

そして、次から次へと溢れ始め、少女の周りに少しずつ溜まり始めた。

少女を囲うように存在した、卵の形をした硝子の殻。

その中に清涼な雫が、一滴また一滴と流れる。

流す涙の分だけ、殻の中に溜まる涙も増え、次第に少女の体も浸かり始めた。

美しかった白い翼も涙に浸かっていく。

無色透明で清らかな涙が傷ついた翼を包み、少女からは温もりと痛みを奪い始める。

殻に溜まった涙は、少女からあらゆる苦痛を奪っていった。

痛みも悲しみも、絶望さえも。

そうして、いつの間にか少女の頭までもがすっぽりと覆われ、硝子の殻は涙で一杯になった。

ふわふわと髪が波打ち、白い翼がまるで翔んでいた時のように揺らぐ。

未だに折れたままの翼からは痛みが消えていた。

その代わり、少女の意識も揺らぎ始め、ハッキリしていた思考も霧散してしまう。

自分に何が起こったのかもあやふやになっていき、最後には少女の意識まで、涙に溶けて消えた。




何も無い、白い世界。

そこに、硝子の殻に入って蹲っている、翼の折れた少女が一人。

自らが流した涙で、自身を全てから守るために閉じこもっている。

だが、少女しかいなかった世界に、突然、一人の少年が現れた。

少女と歳は同じくらいのその少年は、色彩が極端に少ない。

透き通るような白い肌に、長い銀髪。

そして、銀色の瞳も加わると、まるで精巧に作られた人形のようだ。

少女には温もりを感じさせる何かがあったが、少年には温度がない。

その色合いのせいなのか、表情が欠落しているせいか。

どちらかはわからないが、酷く冷たいもののようにも見える。

少年は硝子の殻に始めから気付いていたのか、真っ直ぐ迷うことなく近づき、その傍らに膝をついて、両手で殻に触れた。

ゆっくり、そっと、少年は殻を撫で始めた。

その表情は変わらず冷たいのに、手つきは慎重で優しげだ。

少年は中で蹲る少女の様子を気にしているのか、時折、手を止めてじっくり眺めては、また撫でるということを繰り返している。

暫く、少年が撫で続けていると、殻いっぱいに溜まっていた涙が、ふるんと波打ち、少しずつ少しずつ減り始めた。

少年が撫でれば、その分、涙が減って少女の体が顕になっていく。

そうして、折れた翼が現れた時だった。

少女の肩が震えた瞬間、せっかく減ってきていた涙はものすごい勢いで溜まり始め、あっという間に元の状態に戻ってしまった。

手を離していた少年は目を見開いたものの、すぐにまた両手を当てて、撫で始める。

やはり慎重に、優しく。

慌てず、焦らず、ゆっくりと。

その後、涙は減ったり増えたりを繰り返し、少年はそれでも変わらず、ずっと撫で続けた。




どれくらいそうしていたのだろう。

少女の翼が現れ、また元に戻ってしまうのかと思われた時だった。

今まで微動だにしなかった少女の顔が、ゆっくりと上がり、ようやく撫で続ける少年の存在に気付いた。

全身に力が入り、足を抱えている手がその強さのあまり真っ白になる。

怯えるような瞳からは、また一粒涙が落ちた。

他者が恐ろしいと思っているはずの少女であるにも関わらず、何故か少年から目を逸らすことができない。

銀の色彩を持つ美しい少年は、少女と目を合わせたまま、またゆっくりと殻を撫で始めたのだ。

驚き固まったままの少女の目からは、もう涙は流れていない。

少女はジッと少年の動きに魅入っていた。

これまで見たことのない色彩を持つ少年。

無表情のまま、淡々と殻を撫で、その度に少女の周りから涙が消えていく。

すっかり顕になった翼は折れているものの、以前よりも痛みが引いてきていた。

目の前にいる少年が何かをしたのだろうか。

そもそも何もなかった世界に、どうして少年は現れることができたのか。

少女は少年についてわからないことばかりなのに、最初の怯えはすぐに消え、不思議と恐怖感を抱くことはなかった。

そして、遂に少女の周りから涙がすっかり消え、残されたのは蹲っている少女と硝子の殻だけ。

その殻を少年は軽く叩いた。

すると、どれだけ涙を溜めてもビクともしなかった殻に、小さな罅《ひび》が入った。

更に少年はあくまでも優しく叩く。

少しずつ広がる罅。

最後のひと叩きと言わんばかりに、少しだけ強く叩かれた瞬間、音もなくその殻は砕け散った。

少年は動じることなく、少女の背中側に回り、今度は折れた翼を撫で始めた。

殻に触れていた時よりも、更に慎重に、優しく。

柔らかい羽の一本一本を整えるかのように。

時間をかけて撫でられた翼は、いつの間にか元の美しい翼へと戻っていた。

治ると思ってなかったのに、少年は簡単に治してしまった。

殻に閉じこもった少女を簡単に出してしまった。

「……神様?」

少女は呟いた。

それが音となったかはわからない。

ただ、少女の口の中でだけで言葉になったのかもしれない。

そんな少女の問いに、少年は答えることなく、少女の正面に来て座った。

そして、華奢な少女の手をそっと握り締めた。

覗き込むように少年は少女を見つめる。

何も言わず、無表情のまま。

不意に、少女の中で、大切な人の顔が浮かんだ。

「……聖《ひじり》?」

この世界に来てから、少女は初めて音を聞いた。

自らが発した、よく知る名前。

すると、銀色を持つ少年は初めて口元を緩め、優しく微笑んだ。

「聖凪《せいな》。ここは君の世界じゃない。待っている人たちがいるよ」

凛と澄んだ少年──聖の声が、少女──聖凪の耳に届いた。

「聖凪……?」

「君は聖凪。思い出して。君の近くにいた人を。君を大切に思っている人たちを。君が大切にしてきた人たちを」

「私を大切に……? 私が大切に……?」

聖凪はジッと、自分と同じ字を持つ聖の顔を見たまま、自分の頭の中をぐるぐるとかき混ぜ、いろいろなものを手繰り寄せた。

その瞬間、急速に、聖凪の記憶が蘇り、真っ白だった世界に不規則な色彩が入り始めた。

驚いて周囲に目をやった後、目の前の聖を見直すと、いつの間にかいたはずの銀色をした聖の姿はなかった。

握られていた手の感触だけを残して。

ゆっくりと世界が変わっていく。

天使の姿をした聖凪は、可愛らしいピンク色のパジャマ姿へと変わった。

次第に、聖凪の意識が遠のいていく。

ゆらゆらと揺れる体も、思うようにはならなくなっていった。

その感覚になんとなく目を瞑った、次の瞬間、聖凪の鼻をいい匂いが掠めた。

何も感じなかった体に、温かくて柔らかいものを感じた。

カタンという小さな音が聞こえた。

恐る恐る目を開くと、そこは聖凪の部屋のベッドの上で、聖凪はそこに寝ている状態だった。

今までの世界は全て夢だったのか。

それとも、こちらが夢なのか。

見たことのない銀色の色彩を持つ少年は、聖凪を殻から出し、翼を治してくれた。

顔は幼馴染の聖だったように思うが、聖にあんな力はないし、何より銀色ではない。

再び、カタンと音がして、そちらを見てみると、食器をテーブルに置いている女性がいた。

聖凪はこの人をよく知っている。

大好きな人。

「お母さん」

「聖凪……!」

すごい勢いで顔を上げた母親は、慌てて聖凪の元へ駆け寄り、その勢いが嘘だったかのように、ゆっくりと手を伸ばしてきた。

「お母さん」

「聖凪……わかるの?」

「え?」

「お母さんが、わかる?」

「当たり前じゃない。何を言ってるの?」

聖凪は小さく笑った。

だが、母親は笑わず、代わりにポロポロと涙を流し始めた。

「お母さん? どうしたの?」

「あなた、ずっと寝たまま、起きなかったのよ」

「……え?」

「聖凪。あなたは、少し前から学校で嫌な思いをしていたらしいの。ある日、怪我をさせられて、病院に運ばれたのよ。幸い酷い怪我ではなかったのだけど……あなたは眠ったままになった」

聖凪は『怪我』と聞いて、すぐに折れた翼を思い出した。

「精神的なショックを受けたんだろうって、お医者さんに言われたわ。今、聖凪は心の傷を治そうとしているんじゃないかって」

その言葉に、殻に閉じこもった自分を思い出した。

「もう、大丈夫」

そう。

根拠はないけれど、聖凪はもう心の深い傷は治ったと感じていた。

全てが消えたわけではないだろう。

それでも、もう大丈夫だと言っていい。

そんな気がした。

あの聖に似た少年が治してくれた翼は、きっと聖凪の心そのものだったのだ。

「今まで、ありがとう。心配かけて、ごめんなさい」

期間はわからないが、母親の様子から、決して短い期間ではなかったのだろうと予想がつく。

「いいのよ。あなたが大丈夫だと言ってくれるのなら、お母さんは嬉しいわ」

「あの、それで、聖は……?」

「聖くんは毎日来てくれてるのよ。多分、今日ももうすぐ」

母親が言いかけたそのタイミングで、部屋のドアがノックされた。

「ほら、来てくれた」

クスッと笑った母親の頬は涙で濡れていたけど、表情はとても穏やかで、聖凪は気付かれないようにホッと息を吐いた。

母親が開けてくれたドアから、聖がひょっこりと顔を出し、大きく目を見開いた。

「聖、ありがとう」

ごめん、じゃなくて、ありがとう。

「……聖凪」

「助けてくれて、治してくれて、ありがとう」

「……は? お前、何言ってんの?」

怪訝な表情をしながらも、聖は聖凪の近くまで来て、椅子に座った。

聖凪はそれを見ながら、また笑った。

そうだ。

聖はあんなに穏やかな言葉遣いじゃない。

少し乱暴な男の子っぽい話し方だ。

「何でもない」

「変なやつ」

「でも、ありがとう」

毎日来てくれていたのなら、とても心配してくれていたのだろう。

「別に。俺、何もしてねぇし」

ふいっとそっぽを向いた聖の耳は真っ赤になっている。

「たくさんの人に、お礼言わなくちゃ」

「そうだな。みんな、待ってるぞ。さっさと元気になって、戻ってこい」

「うん、そうだね」

寝たままだった体は、確かに思うようには動かない。

今度は体の方を戻していかなくては、元の生活には戻れないだろう。

問題だって、恐らく解決したわけではないだろう。

でも、今なら冷静に向き合えるはずだ。

「神様、ありがとう」

「は?」

「何でもない」

銀色の色彩を持つ美しい少年。

聖の姿をした神様。

それは聖凪の心が作り出した夢の世界だったのかもしれない。

だが、心の傷が軽くなっているのも事実。

あれは、きっと────。



*終*
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