銀のサクリファイス

作家: わか
作家(かな): わか

銀のサクリファイス

更新日: 2023/06/02 21:46
詩、童話

本編




月夜を跨ぐ黒い影
銀の魔法を空から与え
生の営みを携えん
常世に奇跡を物語るも
其は奇跡に非ず
優しさの贈り物也


老齢の折、執筆活動に支障をきたすようになった身体の不調を鑑みて私はサンクトペテルブルク市ネヴァ川を位置する小ぢんまりとした別荘に移り住む事になった。

長年の住み慣れた屋敷を維持するだけの財産も心許なく多くの側使えも暇に出し、連れ添いは1人の女中と1匹の黒猫だけである。

この女中、全く摩訶不思議なもので経歴などはいくら探しても見付からず誰が雇い入れたのかはたまた検討も付かず、さりとて愛想は良く何でもそつなくこなすので割りと気にするほどもなく置いておいたものである。

さて、私が別荘に移り住んでからと言うもの、環境が良いのかあれほど遅々として進まなかった執筆作業も遅れを取り戻し悠々たる面持ちで日々を過ごしていた。

心許ない財産ではあったが、1人と1匹を養うには到底十分な蓄えでは有ったため慎ましくではあるが心穏やかな日常を私は楽しんでいた。

そうして数年も経った頃だろうか、私はふいに胸が酷く痛みだし脈打つのを感じるようになっていた。

時折見せる私の苦い愛想笑いに女中は訝しげに顔を曇らせ、そしてついには黒猫と共にいづこかへ姿を消して行ってしまい、いつしか私は1人きりの夜を過ごすようになっていった。

左胸の痛みはその後慢性的に持続を続け、捗っていた執筆も筆は床板を転がり埃を被る始末。
酷くやつれた身体を引き摺り薬を求めては1日の大半をベッドと共にする。
そんな日々を過ごしていた矢先、ふいに訪問客が現れた。

中年のいかつい面持ちの男性とまだ子供にも見まごうような若い男。

何の用かと訊ねると中年の男は重々しい口調でこう言った。

「この女に見憶えはありませんか?」

薄っぺらい紙の覚書には確かにあの女中の顔が写っていた。

その時、私は調子も悪く恐らくは精神的にも疲弊していたのであろう。このような状態の主人を残しいづこかへ消えてしまった恩知らずな女に酷く腹を立てていたので、つっけんどんにこう返してやった。

「あぁ、知っていますよ。憶えていますとも、あの恩知らず。病気の私を1人残し、どこへともなく消えてしまいましたよ」

ふむ…と中年の男は考える素振りを見せ、それから私をねぶるように見定めこう言った。

「おじいさん、その女はね。魔女の疑惑が懸かってるですよ。きっとあなたのその病は魔女の呪いだ」

「呪い?」

はてさて、私はあの女に呪われるような酷い仕打ちをしただろうか?
確かにここ数年は調子も悪くつっけんどんな物言いしか出来なかったようにも思える。

だが呪われるほどの事をはたしてしてしまったのだろうか。

私が思慮に明け暮れていると、中年の男は遮るように「とにかくこの女が戻ってきたら直ぐに連絡を」といって立ち去っていった。

慣れぬ立ち会いをしたからだろうか、私はその後直ぐに体調を崩してベッドに横たわり改めて女中の事を考えた。

魔女?馬鹿馬鹿しい、そんなものはお伽噺だけの存在だ。確かにあの女には黒猫がいつも付き添っていたが何の事もないただの黒猫だ。
私が詩人だと知ってきっとからかいにきたに違いない。

私は私に言い聞かせるようにかぶりを振った。

その夜、言い知れぬ胸の痛みに眠る事も叶わず、私は終にここで終わるのだなと覚悟した。

最期はあのネヴァ川を望みながら月夜の下で終えるのだと餓鬼のように痩せ細った足を引き摺り私は庭へ出た。

漆黒の闇を照らす満月の光の下、あの女がいた。肩に黒猫を乗せてこちらをじっと微笑んでいた。

何かを言おうとした私の口が開く前に彼女がこう囁き、私の手にそっと握らせたのは銀に輝く鎖だった。

「これを売ってお金にして下さい。そうして十分な治療を」

見れば彼女は家にいた時の頃とは見まごう程、みすぼらしく見えた。

あの上等な服はどうしたのだろう?
あんな痩せ細ってまるで私と変わりないじゃないか。

銀の鎖。確かに銀は高価で売れば上等な治療を受ける事が出来る。

だが、一体今になって何故?

しげしげと鎖を見つめる私に彼女はこう言った。

「今夜こそ本当にさようなら、あなたに仕える事が出来てわたしは幸せでした」

ハッと見上げると、真円の月に彼女の影が色濃く写っていた。

そうして何年ぶりだろうか、私は弱々しい声で腹の底から大笑いした。

魔女だって?違う。彼女は女神さ。私にとっての。

涙で滲むネヴァ川の煌めきを見つめ私は側の樫の木に背を預け銀の鎖を抱きしめた。

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