あおはるかおる
あおはるかおる
更新日: 2023/06/02 21:46恋愛
本編
「あ、だれ? 見えてた?」
少し赤くなった外から差し込む光の中、あっけらかんとした彼女は、少し乱れた胸元を隠しもせず、多目的室の後ろ側の入り口に向かって言った。彼女の手には、小さななコンパクトと、色付きのリップクリームがあり、崩れた化粧でも直していたのだろうか。いつも化粧の濃い彼女が、つけまつげを外し、アイラインもしていない。
なんだか、これもまた見てはいけないものではないかと、思ってしまう。
彼女をこのようにした張本人であるあの男は、通学カバンを持って出ていく後ろ姿を見ており、何故だか彼女は一人ここに残っているのだろう。
普段ならば多目的室は真っ暗のはずだ。けれど、珍しく開けられた遮光カーテンと僅かに開けられた窓。しかし、換気が追い付かないのか、漂う清涼感系の鼻を突き抜ける独特な香りと、人工的な柑橘の匂いは少年の鼻に届いていた。
「って、金原(きんばら)じゃん!」
何も言えず戸惑っているのか固まっている少年こと金原に対し、彼女は何事もなさそうに名前を呼んで笑う。
彼女は、少年と去年同じクラスであった女子だ。そして、陰気でコミュニケーションに難がある自分にも、よく話しかけてくれる人だった。
人気者たちにも、陰気な人たちにも、分け隔てなく声をかけてくれる彼女は、見た目は相当派手ではあるが、仲の良いギャル友達からも信頼が厚かった。
少年と彼女もまた、彼女から声を掛けられたことにより、たまたま漫画の話で盛り上がってからは、同じクラスの時は彼女からよく話しかけれたものだった。
しかし、今年からは二人は必然的にクラスが離れてしまった。なぜなら、二人が通うこの高校は、一年は全員カリキュラムが同じなため完全ランダムだが、二年から進学希望学科によりカリキュラムが変わるため、進路学科が違う離れてしまっている。
こうして、二人が正面から会うのも実は三か月ぶりで、クラスの編成の都合上、校舎が離れてしまったせいで会うことはそうそうなかった。
その彼女の手には、蓋の色がと本体の色が違う液体タイプの制汗剤が握られていた。
本体のボトルはオレンジ、蓋は青色、それは明らかに売り物の時の統一された色ではなくなっていた。
思えば、CMで最近はその制汗剤の蓋を仲良い人と交換するのが流行っているらしい。
妹がそんなことを言って、母親にスーパーでその制汗剤を強請っていたのを、少年はなぜだか覚えていた。自分には関係ないと思ってはいたが、なんとなくだが交換というのが羨ましかった。
「内田さん、あの、ここ、使いたいんですが、いいですか?」
「相変わらず、敬語とかウケるんだけど。いいよ! なにやんの?」
「えっと、あの、ちょっと作業したくて……」
「なんの? ええー教えてよ! てか、電気つけろって」
「そ、そうですね」
パチン、パチン。扉付近にあるスイッチを順番に押していく。適当に押したからか、まず真ん中の電気が着き、後ろ、前、教卓と多目的室が明るくなっていく。彼女がいた辺りに、長机が置いてあり、その足元に彼女の通学カバンが口を開けたまま、乱雑に置かれていた。
(相変わらずギラギラしたカバンだな)
カバンにはかわいいオレンジ色のウサギっぽい毛玉のマスコットがあり、ほかにもリボンゴムやカラフルなピンによって、ギラギラと可愛く装飾されている。
その光景を尻目に、いそいそと少年は多目的室の片隅置いておいた模造紙の束とマッキーを取り出した。
「ん? え、なにやんの?」
「ちょっと、部活で、使うんで」
「えー金原、部活入ってたとか知らない。え、なになに? 何部? パソコン好きだし、パソコン部?」
相変わらず、距離感がおかしい彼女は、作業準備し始めた少年にどんどんと近づいていく。距離が近くたびに彼女から香る匂いが少しずつ変化する。
汗のにおいを奪い去るほどに強い清涼感に隠れていた甘い、桃のような香りだ。ただ、桃といっても軽い匂いではなく、何となく重みがある桃の香りだ。
自分を狂わしそうになる匂いだと、本能的に悟ったのだろうか。少年は汗を拭うふりをして、自分の着ている学校指定のカーディガンの匂いを嗅いだ。夏を迎え、汗を常に吸っているそれは、自分でもあまりいい匂いとは思えない匂いだ。
「……文芸部、友達たちと立ち上げたんです」
「文芸部? あー! 小説とか、詩とか、なんかそういうやつ書くやつでしょ!」
「まあ、それだけじゃ……ないですけど、そうですね」
「そうなんだぁ、じゃあ、金原は小説書いているの?」
それはとても鋭い質問であり、少年の心は一瞬にして沈み、それを表しているかのように首は垂れて、床の模造紙ではなく自分の臍を除いてしまうほどだ。
「小説、俺書けないから、とりあえず、本読んでその作者、考察しようかとおもって……アンデルセンをテーマにしようかなって」
想像力がないから、面白いものを書けない。それどころか、筆を一文字進めるごとに自分の首を絞めるようだ。クラスで仲良くなった友達たち。正直少年としてはノリと勢いで立ち上げに参加したけれど、今は少し後悔しているくらいだ。
友人たちの物語は、それぞれの形で今世に産声を上げようとしている。例え、文章が稚拙でも、文章ではないセリフの羅列であっても、主人公が妄想の塊であっても、関係ないと言わんばかりに突き進む彼らの横にいるのは、今の少年にとっては楽しくもあり、辛くもあった。
自分はこんなにも、つまらない男だったのだろうかと。
そして、遂には逃げ出した。
幸い、本を読むことと人間観察等は大好きだったため、なにか好きな本を読み、作者像や内容について考察すればいいと思った。偉そうな読書感想文と言われそうだが、それでもよかった。今の自分にできることはそれしかない。
どうせ、小説を書けない俺はつまらないと、彼女は思うだろう。そんな投げやりな気持ちだった。
「考察? よくわかんないけどさ、すごいかっこいいじゃん! 私、読書感想文苦手でさーめっちゃ羨ましい」
けれど、予想に反して彼女は相も変わらず、自分のことを褒めてる。
そして、少年は改めて認識をする。
彼女のことが苦手だと。
「わかんないのに、なんでかっこいいって言えるんですか」
思わず、絞り出した言葉は思ったよりも棘があり、少しばかりの嫌悪に近い感情がにじみ出ている。
(あの男にチクられたら、俺明日から大変だろうな)
頭の中では、この対応は学校で生きる上で得策ではないことを、少年はよく知っていた。彼女を敵に回すということは、“青いボトルにオレンジ色の蓋の制汗剤を持った男”やその周りのやつを敵に回すということだった。
「うーん、響き的なやつ? 考察って、一つのことに関して色々考えるとかさ、私、飽き性だからさ~うちの友達たちもだし、興味薄いとさすぐ飽きて投げ出すの目に見えんだよね」
しかし、彼女は特段少年の様子に対して、何か文句を言うこともなく、自分なりに考えただろうことを少年に伝えた。言葉を頑張って選んだのが伝わる。しかし、一度自分ではどうしようもできないスイッチが入った少年は、それを素直に受け取ることが出来なかった。
「いいですよ、本当のこと言っても。どうせ、つまんないやつとでも思ってるんでしょ。陰気で、つまらなくて、いやな奴だって」
「そんなこと、言ってないじゃん、ちょっとBAD入りすぎでしょ。私にはできないからガチすごいって話してんじゃん」
彼女が一歩近づく、少年は二歩下がる。二人の距離は少し広がった。
言いがかりにも近い言い分に、さすがに棘が出てきたのか、少しばかり顔を顰めた彼女が冷静に反論する。その澄ました姿もまた、少年を惨めにし、神経を逆なでにしていた。どんどんと取り繕えず、
「……俺、内田さんのこと苦手なんですよ」
「え、なんで? 私、何かした?」
不思議そうな彼女の声。それはそうだ。彼女は直接的には何も問題なことはしていない。ただ、事実として少年は彼女によって苦しめられた。
八つ当たりだ。
わかっている。
勝手だ。
わかっている。
でも、すでに少年は止められなかった。
「ぼっちの俺に話しかけてきて、唯一の友達だと思ってたのに、あの男と付き合うなんて! また、俺をボッチにして! 俺のこと、嘲笑ってたんだろ! ずっと! ずっと! 一人で幸せになって、俺は勝手に舞い上がって!」
半年溜めた少年の悲鳴が、多目的室に響く。この部屋には防音材があるから、少年一人の声は外に酷く漏れ出すことはない。ただ一人、彼女だけがその理不尽で悲痛な叫びを受け止めていた。
あの男。この学校でも人気の男子生徒で、顔が良くて、スタイルもよくて、ちょっと素行が悪いが、友達が多い。まさに学校にあるカーストのトップにいる男だ。
その男に、臨海学校のキャンプファイヤーで公開告白された彼女。
周りが囃し立て、大いに盛り上がり、最終的に彼女が了承し結ばれた二人。
キャンプファイヤーかクラスメイトの盛り上がりか、狂うほどの熱気に包まれたの中、ただ一人冷え切り凍り付いた体を体育座りで抱きしめる。見つめあう二人を、絶望の眼差しでその光景を見ていることしかできなかった。
まさに、俺と正反対の男なのだ。
叫びの後の沈黙。静かだ。風の音すら聞こえない。すでに外は茜色に染まり逢魔が時にふさわしい禍々しい赤が多目的室に差し込んいる。
夜になりかけているのだ。最終下校時間まであと30分ほどだろう。
どのくらい、時間が経ったかは二人にはわからない。
沈黙を破ったのは、彼女だった。
「幸せ? だれが? 私が?」
その声は凄みを感じさせ、ヒヤリとした何かが漂わせている。
「幸せ、だろ。彼氏もいて、友達も多くて、好きなことして」
「それが、金原にとって幸せなの?」
「……幸せの一つだろ?」
自分にとっての幸せかと問われた時、少しだけ答えに詰まった。そして、また逃げるようにして、余計なことばを付ける。なぜだか、沈黙のせいなのか、少年は先ほどの怒りとは違い、まるで蛇に睨まれた蛙のように目の前にいる彼女に対して恐怖心が芽生えていた。
綺麗な色のカラーコンタクトが入れられた瞳は、真っすぐ愚か者を見つめ、嚙みつかんばかりの形相で口を開いた。
「幸せなわけないじゃん。まったく、金原さ、この状況見ておかしいと思わないのは、女心理解しなさすぎ」
「え?」
「普通さ、彼氏がさっさか化粧直してる女置いてく? しかもこんな学校の多目的室でさ」
「いや、その……普通はしないと思います」
「しかも、今日一緒に帰るって約束してたのに、スマホ見ていきなり帰るんだよ?」
「それって、もしや……」
「あいつ、別の学校に本命いんの。知ってるし、バレバレだっつーの」
その顔には嫌悪の感情が惜しみなく溢れている。自分が向けられているわけでもないのに、少年は冷や汗がだらだらと流してしまう。それでも、今まで見たことがない彼女の表情がよく見えた。
「なんで、別れないの」
「今は時期じゃないから。大丈夫、もう好きじゃないし、時期が来たら別れるよ」
「どうして、今すぐでもいいのでは……」
「ダメ。今別れたら、あいつはただ本命と付き合って、私は捨てられた女になる。捨てられて、ただ同情されるなんて、以ての外。ぜってー後悔させるくらいのことしなきゃ……今はその時を待つの」
スパンと体を刀で切られたような衝撃だった。優しい彼女が物騒なことを言っている。少年には信じられない光景だった。そのためになら、好きでもなくても演じきれるのだろうと、今まで見たこともない得体の知れない怖さを少年は感じていた。
「でも、好きだったのでは?」
「私があいつを?」
「だって、告白されたのOKしてた……」
今だ少年がたまに夢見ては、魘されるトラウマとなった光景。確かに、彼女は告白をOKをしていた。しかし、今の彼女を見る限り、あまり気にしていないように思える。
「あーあれは、まだあいつのことよく知らなかったし。
正直、キャンプファイヤーマジック。
周りもさあ、盛り上がりすごくて断れなさそうだったし」
しかし、あのトラウマの真実が、こんな浅い感情だったというのは、だれも想像できなかった。彼女もまた、あの時は、この二人は永遠に幸せだと思っていた。でも、蓋を開けたら、学生のノリの延長戦ではないか。
「やっぱ、知らないやつと付き合うのはさあ、リスクありすぎるよね、そう思わない?」
問いかけに対して既に混乱し黙りこくる少年に、彼女はどんどん近づく。少年は逃げなかった。ただ近づく彼女から目を反らすことも、鼻を抑えることもしない。
制汗剤の香り、桃の香り、そして、目の前にある唇からするストロベリーミルクのリップクリームの香り。
「ねえ、金原さあ、すでに墓の下にいる作者よりも近いところにいる私を考察できてないよ」
そう言った彼女は、少し意地悪そうに微笑んだ。
あれから彼女と合うこともなく、2ヶ月。
文化祭。少年は一人でこっそりと家に帰った去年とは違い、文芸部のスペースで2日間、のんびりと文化祭を楽しんでいた。
彼女はたしか部活には所属してないが、彼女のクラスはダンスステージをするらしいと、パンフレットを見て知った。
少年は、見に行こうと思えば、彼女が踊る姿をこっそり見に行けただろうと思う。
けれど、どうしても決心が着かなかった。
彼女に渡したいものもあるのにも関わらず。
そうして、うじうじするうちに彼女の2日間目の最後のステージも終わってしまった。
やってしまったと、頭を抱える少年に、周りの友人たちは事情を知っているためか、呆れたように肩を竦めた。
そんな折、客もいない片隅の部屋に誰かがやってきた。香る制汗剤。チープで、学生なら誰でも持っていて、独特な、あの時嗅いだ香りだ。
「やっほー! 金原。やっと落ち着いたから来たよー!」
そうして、笑う彼女は、あの時と違い、汗を流していても巻かれた髪は綺麗に保たれ、化粧も綺麗に整えられている。
「内田さん、いらっしゃいませ」
「かしこまんなって! あ、そうそう、ちゃんと仕返し決めてきたよ!」
「え?」
「ダンス本番後にさ、本命彼女と二人で、クラスメイトの前でボロクソに言って、あの男捨ててやった!
やっぱ、みんなの前で告白したなら、みんなの前で盛大に別れないとね!」
そうにこやかに笑う彼女。憑き物が落ちたのか、あの時の底冷えする恐ろしさはなく、さっぱりとした清涼感が彼女から伝わってくる。
「で、そんなことより! 金原の展示物あるんでしょ? どれ? 考察したんだよね?」
「え、と、あの、それ、俺のを、実は渡したかったんだ」
「本とかなの? あれ、模造紙は?」
彼女の問いかけは尤もであり、少年もその問いかけに苦笑いする。ただ、それは逃げたわけではなく、少年はやっと書くべきものを見つけたのだ。
「内田さん、これ、受け取ってください」
「え……まって、ちょっと、面白いんだけど! 流石、金原!」
表紙を見た彼女は、少年の顔と表紙を見比べながら、思わず涙を浮かべてしまうほど笑う。
本のタイトルは『金原少年とは何か』。
自分手書きの横顔の肖像画付きだ。
これは、ただ彼女のためにだけ書いたものだった。友人たちからの聞き取りや、親や妹からの少年の考察も記載したその本は、まさに少年のすべてが詰まっていた。
「内田さんに、俺を知ってほしくて、俺を考察しました。内田さん限定本です」
「ありがとう。まじ、これ落としたらやばいやつ。気をつけるよ」
住所や連絡先、銀行口座以外の個人情報がほとんど詰まっているそれ。正直、落とされたら明日から少年は不登校になる自信があったが、それでもどうしても渡したかったのだ。
「あとその、もう一つお願いがあって」
「ん? なに?」
「少し待って、てください!」
少年は慌てて、自分の鞄から一つのボトルを差し出した。緑色の液体制汗剤。まだ開けてもいないため、蓋には謳い文句が書かれた銀色のシールが貼られている。
「蓋、交換、しませんか!」
思ったよりも力が入って、響く声。周りにいた友人たちは怒涛の展開を固唾をのんで見守る。
彼女はどんな反応するのだろうか。
教室内も、廊下を通りかかった文芸部の顧問も全員同じ気持ちで彼女を見ている。
「アハハハハッ! もう! 金原! 最高!」
彼女は、目を輝かせ、大きく笑った。
「いいよ、今日帰り、一緒に新しいオレンジ色の買いに行こ! ほんと、金原さあ、最高すぎるんだけど!」
そう笑った彼女がぎゅっと少年を抱きしめる。
彼女からは爽やかな制汗剤の香りと、軽やかな石鹸の香りがした。
おわり