窓のないバス
窓のないバス
更新日: 2023/06/02 21:46恋愛
本編
「"窓のないバス"って知ってる?」
十一月中旬。
夕方とも夜とも言えない薄暗闇の中、私は親友の早苗と二人で、バス停に向かって歩いていた。
学校の正門を出てしばらくの間は、他愛もない話で盛り上がっていた。
しかし、ようやく体が温まってきた頃、早苗はまるでこれが本題だと言いたげに、目を輝かせて聞いてきたのだった。
というのも、彼女は無類の新しいもの好きで、ここ数日私の通う高校では、とある奇妙な噂が飛び交っていた。
噂について質問がくることは覚悟はしていたが、あまりに唐突だったので、私は苦笑いしてしまった。
今回の噂の主役である"バス"とは、私たち吹奏楽部に馴染みのある、楽器のバスのことではない。
毎日登下校で使っている乗り物のバスには、どうやら特別なバスが存在するのだという。
そのバスの一番の特徴は、車体に窓がないことだ。
この地域一帯を不定期で走っているものの、目撃情報もほとんどないため、運がいい人だけが乗ることができるといわれている。
しかし、ただ乗るだけでは運がいいとはいえない。
もし、「好きな人と一緒に」乗ることができれば、その人と結ばれる魔法のバス。
「知らないなあ」と私は答える。
どこか悲しそうな表情で、流行に乗り遅れている自分を嘆くフリをする。
本当のことをいうと、私はそのバスのことを知っていた。
それも、おそらく早苗が知った時よりも、ずっと前から。
つまり、私は早苗を騙していた。
それでも、たとえ親友の早苗であっても、誰にも教えたくないことだってあるのだ。
私には好きな人がいて、いつかその人と一緒に窓のないバスに乗りたいなんて、口が裂けても言えるわけがない。
早苗は「知らないのかあ」と、落胆も驚愕も感じられない、落ち着いた声でそう言った。
そして、すでに私が知っている、窓のないバスについていろいろと教えてくれた。
「ざっくり言うと、桜色の行灯(あんどん)タクシーと同じだよ」
早苗は学校だけでなく、SNSで流行っている噂話にも詳しかった。
桜色の行灯タクシー、別名、幸運のタクシーは、田舎者の私には馴染みのない、東京都内を走っているタクシーだ。
行灯とは車体の上についているランプのことで、通常は金色のそれが、ごく稀(まれ)に桜色の時があるという。
聞くところによると、それは五千台に七台ほどしかないらしく、乗ることはもちろん、発見できるだけでもかなり幸運だ。
でも、桜色の行灯タクシーよりも窓のないバスは、もっと珍しくて、難しいんだ。
早苗の話を聞きながら、私は心の中でそう呟く。
窓のないバスは、全部で何台あるかもわかっていない。その上、発見するだけではなく、好きな人と一緒に乗らなくてはいけない。
それで恋が叶うなんて、果たして本当なのだろうか?
窓のないバスなんてただの噂話で、本当は存在しないものかもしれない。
だいたい、バスに窓がないなんてあり得ないではないか。
そう考えると、途端にバスの噂が胡散臭い作り話に思えてきた。
どこかの暇な誰かが、面白半分に作って広めたに決まってる。
私たち高校二年生は、良くも悪くも暇なのだった。
一年生は学校に慣れるのに精一杯で、三年生になると受験勉強で忙しい。
中弛み(なかだるみ)する二年生だからこそ、変な噂が毎日のように飛び交う。
中弛みする今だからこそ、私は恋なんかに浮かれている。
私たちはバス停に向かっていた。
しかし、バスに乗るのは私だけだ。
早苗の家はバス停のすぐ近くにあって、だから本来ならあと数メートルで、手を振ってバイバイと別れるはずだった。
「誰のこと探してんの?」
バス停の前で私が手を振りかけた時、早苗は笑いながらとんでもないことを言った。
噂について質問をされる予想はできても、早苗が私の秘密を知っているとは、まったく思っていなかった。
「どうして知ってるの?」
「目は口ほどに物を言う、ってね」
じゃあね。そう言って早苗は小走りで離れていく。
私はバスの噂なんて信じていない。
でも、私を応援してくれる親友のためにも、何より私自身のためにも。
「一度だけでいいから、窓のないバスに乗ってみたい。」
思わず口に出た私の本音は、白い吐息となって、冬の夜空に溶けていった。
*
自分よりも背の高い時刻表の横に立ち、しばらくの間夜に浸る。
夕刻の面影はもうすでに消えていて、澄んだ空には星が散らばっていた。
私は、冬が嫌いだ。バス停でひとり寂しく待つ間、寒くて凍えてしまうから。
私が待っているのは、バスだけではなかった。
早苗に指摘されたように、私はある人を探していた。
その人はいつも、私がバス停に着いた時にはいない。
でも、こうして待っていれば、必ずカバンを右肩に下げて歩いてくる。
仲良し三人組の真ん中で、一際大きな体が、からからと笑いながら近づいてくる。
私が三本目のバスを見送った後、矢島貴斗(やじまたかと)はバス停にやってきた。
矢島貴斗とは、私の好きな人の名前だ。
話すどころか、声をかけたこともないため、頭の中ですらどう呼んでいいかわからず、結局フルネームで呼んでしまう。
私は列の先頭にいて、その五人ほど後ろに並ぶ彼は、名前も知らないA君・B君と楽しそうに話している。
彼らの笑い声を聞きながら、私の胸の内に、いつも通りの葛藤が蘇る。
今日こそ話しかけてみようかな。
次に来るバスが、窓のないバスでありますように……。
やがて、窓のある普通のバスがやってきて、私は勝手に落胆してそれに乗り込む。
この時間帯はサラリーマンの退勤ラッシュが重なり、席に座ることは滅多にできない。
それでも、先に彼が降りてしまうまでの 十分間にも満たない道のりで、私は車内の熱気とともに、たしかな幸福に包まれていた。
田舎のバス特有の大きな走行音のせいで、次のバス停を告げるアナウンスの声は聞こえない。
だから、私は窓の外を見ながら、今どこにいるのか確かめる。
バスはどのくらい走ったのだろう。
矢島貴斗は、どこにいるだろう。
私は、窓の外の暗闇と窓ガラスの反射を利用して、彼の車内での居場所を探しては、その姿を眺めていた。
たとえ直接話せなくても、彼が友人たちと笑っているだけで、今日一日がとてもいいものに思えてくる。
そう思えるのも、このバスには窓があるからで、窓のないバスだと、これができない。
でも、ただでさえ厄介な今の季節は、バス停での肌寒さに加え、バスの中でも私の邪魔をする。
私は、冬が大嫌いだ。
車内の湿気で窓ガラスが曇って、彼の姿が眺められないから。
間もなくして、彼はバスを降りていった。
それから十分後、私も忘れずにバスを降りる。
街灯の少ない暗い夜道で、外の空気と車内との気温差が、いっそう身に堪(こた)えていた。
最近は好きな人を眺めることさえできていない。
そんな寒々しい気持ちの中で、今日も一日が終わっていく。
*
「窓がないバスってなんかエロくね?」
教室の後ろから、クラスの男子の幼稚な声が聞こえてくる。その声はどこか浮かれていて、今がテスト期間であることを私に実感させる。
不思議なことにテスト期間が始まると、教室の雰囲気はいつもよりも明るくなるのだ。
試験という名の試練が待っていることも忘れて、部活動が休みという特別なイベントが、自ずとみんなを笑顔にする。
「どうしたの、浮かない顔して。」
私はというと、そんな周りの明るい雰囲気に、まったく馴染めないでいた。
テスト勉強と"もうひとつの悩み"が、ただでさえ葛藤ばかりの、窮屈な心をしめつける。
「全然進展してないんだね」
私の恋心を知っている早苗は、今では頼もしい相談役になっていた。
「でも、今はもっと厄介な悩みがあるけど」
そう言って、私たちは苦笑いした。
さっきから教室の後ろで騒いでいる、幼稚な男子たちの猥談。
たとえ耳を塞ごうとも聞こえてしまうその声に、私はいつになく苛立っていた。
私が必死に探している窓のないバスを、あんな下品な会話の話題にしてほしくなかった。
きっと矢島貴斗なら、そういう話はしないのだろうと思う。
いつ見かけても落ち着いている彼は、たとえそういう話を振られても、笑って相手にしないに違いない。
私はそんな彼の大人びたところが好きだった。
私の彼に抱く好きという感情は、家族や早苗に対して抱くものとは全然違う種類のものだ。
でも、それがどのようなものかというと、まったく言葉にできずにいる。
言葉にできなければ、告白もできない。
そうやって言い訳ばかりして、私はいつまでも前に進めないでいる。
どうして彼と同じクラスじゃないのだろう。
私は、自分のくじ運のなさを呪いたくなった。
クラスが違うせいで、毎日バスでしか顔を合わせられない。
先月の修学旅行だって、クラスが同じなら、どれだけ楽しかっただろうかと思う。
もちろん、早苗とお菓子を食べながら話した、移動中のバスは楽しかった。
でも、バスだと新幹線みたいに、席の移動が許されない。
私は違うクラスの矢島貴斗を、一度も眺めることなく修学旅行を終えた。
いや、たとえバスではなく新幹線だったとして、席の移動が許されたとしても、いったい私に何ができたのか?
くじ運もない上に意気地なしな私は、窓のないバスの力を借りることでしか、矢島貴斗と結ばれない。
そのような自分に対する諦めの気持ちが、窓のないバスへの憧れを、日に日に募らせていくのであった。
*
それから三週間はあっという間だった。
十二月半ば。クリスマスまであと一週間ということで、世間はすでに賑わっていた。
イルミネーションという物理的な色だけでなく、こんな田舎の地域でさえ、街の雰囲気そのものが艶やかに色づいて見えた。
街全体が明るくなり、テストも終わり、本来なら浮かれているはずの私は、いつになく気持ちが沈んでいた。
この三週間、矢島貴斗との進展はなく、窓のないバスも見られなかった。
実は、私はテスト勉強もそっちのけで、窓のないバスを見るための作戦を立てていた。
矢島貴斗と一緒に乗ることは一度諦め、まずは窓のないバスが、本当に存在するのかを確かめたかった。
そのために私は、テスト勉強の時間も削って、冬の寒さにも耐え、いつもよりも長い時間、バス停でバスが来るのを待っていた。
はじめは期待で胸が膨らんだ。
それが次第に焦りに変わり、二週間が経つとバスを眺めることに飽き始め、三週間目になってようやく諦めがついた。
そもそも見ることができたところで、好きな人と一緒に乗らなければ意味がない。
こんなにも遭遇する確率が低いのに、一緒に乗ろう
なんて誘ったりすれば、それこそ矢島貴斗に嫌われてしまう。
でも、諦めはいつだって次の挑戦を生む。
私は落ち込むのも束の間、すぐに別の作戦を立てた。
窓のないバスを話題にして、彼に話しかけることに決めたのだ!
バスの存在が噂話でしかない今、それをネタに急接近することは、窓がないバスへの最良の"乗り方"だと、私はひとりほくそ笑んだ。
勉強不足のために三科目も追試に引っかかった私は、良くも悪くもやけになっていた。
私は矢島貴斗と同じバスに乗るためには、どの曜日が最適かを知っていた。
それは、この三週間で得ることができた、唯一の収穫と言ってもよかった。
毎週水曜日だけ、矢島貴斗はひとりでバスに乗る。
A君は最近彼女ができて、自転車で登下校するようになった。また、B君は水曜日だけ、学校近くの塾に通い始めた。
そして、ある水曜日の放課後、私はいつも通り早苗と別れると、おしゃれな防寒具に身を包み、矢島貴斗が来るのを待つことにした。
彼はサッカー部に所属していて、練習後の片付けや着替えなどがあるから、吹奏楽部の私よりも学校を出る時間が遅い。
窓のないバスに乗るのを諦めたのなら、バス停ではなく学校の正門で待っていればよかったことに今更気づく。
私はどうしようもなく緊張していて、いつもは寒さに凍える体が、この時は別の理由で震えていた。
震える私の目の前の道路を、鮮やかな車のライトが、何十何百と通り過ぎていく。
矢島貴斗がやって来たのはいつも通り、三台目のバスを見送った直後だった。
まだ列には私しか並んでおらず、彼は必然的に私の隣に立つことになる。
これも、すべて計算通りだった。友人たちと並んで歩く時より、彼一人の方がバス停に早く着く。
そのため、普段の到着時刻から逆算すると、彼がやって来た時にはバス停の列はちょうどリセットされている。
道路の方に向いて俯いていた私は、彼が隣に立った時、意を決して顔を上げた。
窓ガラスの反射は使えないから、私はまっすぐに面と向かって、初めて彼に声をかける。
「私と一緒にバスに乗りませんか?」
矢島貴斗は一瞬困った顔をした。
それから、すぐに、いいですよと笑ってくれた。
自分に対して向けられた笑顔を直視できずに、私は再び俯くのだった。
その後、バスが来るまでの数分間、私と矢島貴斗はなんでもない話をした。
彼との初めての会話は、びっくりするほど盛り上がった。それは、彼が思いの外(ほか)お喋りで、私よりもたくさん話してくれたためだった。
「サッカー部って、いつもこんなに遅いんだね」
「練習時間も長いけど、俺の場合、着替えるのが遅いんだよね」
彼は体が大きいから、狭い部室では着替えるのに時間がかかるらしい。
そのせいで、彼は部室の鍵を返しに行かなくてはならず、いつも帰りの時間が遅くなるのだという。
「でも、俺、この時間の空が好きだな」
矢島貴斗はそう言って空を見上げる。私もつられて上を見る。
視線の先には矢島貴斗が教えてくれた、綺麗な星空が広がっていた。
「冬の空が澄んで見えるのは、空気中の水蒸気の量が少ないから。だから、透明な空では、星が普段よりも綺麗に輝く」
まるでプラネタリウムのナレーションのように、低い声が隣から聞こえる。
「よく知ってるね」
私が素直に感心すると、この前の理科のテスト範囲だったじゃん、と矢島貴斗はからからと笑った。
その笑顔はまるで空から降ってきたみたいで、彼の背丈がバス停の時刻表よりも、ずっと高いことを初めて知った。
再び視線を夜空に戻すと、いっそう星が輝いて見えた。
あんなに嫌いだった冬という季節が、私は大好きになっていた。
それから数分後、あっという間にバスはやってきた。
そのバスはどこからどう見ても窓のある、いつも通りのバスだった。
相変わらず乗客の数は多いけど、この日はたまたま席が空いていた。
それも、まるで私たちのために用意されたような、隣がけの二座席が。
私が窓際で、その隣に矢島貴斗が腰かける。
星空の下ではわからなかった大きな体の熱気が、狭い座席ではものすごく近くに感じられる。
「汗臭くない?」と聞いてくる彼に、「全然大丈夫。」と私は答える。
本当は、全然大丈夫じゃない。
いつもは走行音にかき消されて聞こえない声が、今は隣で笑っている。
それだけで私の胸は、周りに聞こえそうなくらいにうるさく鳴っている。
うるさいのは胸の鼓動だけではなかった。
目は口ほどに物を言う。私は早苗に指摘されたことを思い出して、なるべく視線を彼から遠ざけた。
自分の内側で暴走する気持ちを、彼に悟られたくなかったから。
それでも、少しでも彼の方を向いていたくて、私の視線は窓の存在を、すっかり忘れてしまっていた。
私にとって、このバスには窓がないも同然だった。
そう、たしかにこの瞬間、私の乗っているバスには窓がなかったのだ。
もちろん、そのことに私は気づいていない。
視線の先には大好きな人がいて、それは決して、窓ガラスに映る虚像ではない。
私には矢島貴斗しか見えておらず、他の乗客も、窓ガラスも、この時には存在していなかった。
車内のアナウンスもまったく聞こえず、彼が隣にいるという実感だけが、私の世界のすべてになる。
私が窓のないバスの正体に気づいたのは、矢島貴斗が大きな体を座席から浮かせた時だった。
「ここ俺の降りるバス停だから」
まるで魔法が解けたように、私ははっと我に返った。
もっとたくさん話したいことがあったのに、夢のような時間を乗せて、バスは順調に進んでいたのだ。
矢島貴斗が、足元に置いていたカバンを、いつも通り右肩に掛けようとしている。
その事実が、私を奈落の底に突き落とす。
私と違って、彼には窓は見えてたんだ。
もうこれで最後なのかな。
それでも、
「また明日」
私は最初、聞き間違いかと思って、何も言えずに呆然としていた。
そのうちに、彼はバスを降りてしまった。
でも、私はたしかに聞いた。
目が合った彼が、低い声で言った、たった五文字の魔法の言葉。
私の体は勝手に動いて、制服の袖で窓を拭(ぬぐ)った。
窓ガラスの曇りが乱雑に消されて、その奥ではぼんやりとしたシルエットが、こちらを向いて立っていた。
自分の息で見えなくなる窓を、再び拭って、諦めた。
その諦めは、すぐに私を次の行動に移させる。
慌てて窓を開けると、彼はまだそこに立っていた。
動き出そうとするバスのエンジン音に負けじと、私はめいっぱいの声で叫ぶ。
「矢島君!また明日!」
矢島君は、手を振ってくれた。
私も、負けじと手を振り返す。
私は、彼に対して抱く"好き"という感情を、ようやく言葉にすることができたと思った。
彼に対する私の"好き"は、周りのすべてを見えなくさせる。
やがて彼の姿が完全に見えなくなった時、私の目の前には、あるはずの窓がないことに気づいた。
澄み渡る冬の夜空が、何にも邪魔されずに、私の目の中に飛び込んできた。
0十一月中旬。
夕方とも夜とも言えない薄暗闇の中、私は親友の早苗と二人で、バス停に向かって歩いていた。
学校の正門を出てしばらくの間は、他愛もない話で盛り上がっていた。
しかし、ようやく体が温まってきた頃、早苗はまるでこれが本題だと言いたげに、目を輝かせて聞いてきたのだった。
というのも、彼女は無類の新しいもの好きで、ここ数日私の通う高校では、とある奇妙な噂が飛び交っていた。
噂について質問がくることは覚悟はしていたが、あまりに唐突だったので、私は苦笑いしてしまった。
今回の噂の主役である"バス"とは、私たち吹奏楽部に馴染みのある、楽器のバスのことではない。
毎日登下校で使っている乗り物のバスには、どうやら特別なバスが存在するのだという。
そのバスの一番の特徴は、車体に窓がないことだ。
この地域一帯を不定期で走っているものの、目撃情報もほとんどないため、運がいい人だけが乗ることができるといわれている。
しかし、ただ乗るだけでは運がいいとはいえない。
もし、「好きな人と一緒に」乗ることができれば、その人と結ばれる魔法のバス。
「知らないなあ」と私は答える。
どこか悲しそうな表情で、流行に乗り遅れている自分を嘆くフリをする。
本当のことをいうと、私はそのバスのことを知っていた。
それも、おそらく早苗が知った時よりも、ずっと前から。
つまり、私は早苗を騙していた。
それでも、たとえ親友の早苗であっても、誰にも教えたくないことだってあるのだ。
私には好きな人がいて、いつかその人と一緒に窓のないバスに乗りたいなんて、口が裂けても言えるわけがない。
早苗は「知らないのかあ」と、落胆も驚愕も感じられない、落ち着いた声でそう言った。
そして、すでに私が知っている、窓のないバスについていろいろと教えてくれた。
「ざっくり言うと、桜色の行灯(あんどん)タクシーと同じだよ」
早苗は学校だけでなく、SNSで流行っている噂話にも詳しかった。
桜色の行灯タクシー、別名、幸運のタクシーは、田舎者の私には馴染みのない、東京都内を走っているタクシーだ。
行灯とは車体の上についているランプのことで、通常は金色のそれが、ごく稀(まれ)に桜色の時があるという。
聞くところによると、それは五千台に七台ほどしかないらしく、乗ることはもちろん、発見できるだけでもかなり幸運だ。
でも、桜色の行灯タクシーよりも窓のないバスは、もっと珍しくて、難しいんだ。
早苗の話を聞きながら、私は心の中でそう呟く。
窓のないバスは、全部で何台あるかもわかっていない。その上、発見するだけではなく、好きな人と一緒に乗らなくてはいけない。
それで恋が叶うなんて、果たして本当なのだろうか?
窓のないバスなんてただの噂話で、本当は存在しないものかもしれない。
だいたい、バスに窓がないなんてあり得ないではないか。
そう考えると、途端にバスの噂が胡散臭い作り話に思えてきた。
どこかの暇な誰かが、面白半分に作って広めたに決まってる。
私たち高校二年生は、良くも悪くも暇なのだった。
一年生は学校に慣れるのに精一杯で、三年生になると受験勉強で忙しい。
中弛み(なかだるみ)する二年生だからこそ、変な噂が毎日のように飛び交う。
中弛みする今だからこそ、私は恋なんかに浮かれている。
私たちはバス停に向かっていた。
しかし、バスに乗るのは私だけだ。
早苗の家はバス停のすぐ近くにあって、だから本来ならあと数メートルで、手を振ってバイバイと別れるはずだった。
「誰のこと探してんの?」
バス停の前で私が手を振りかけた時、早苗は笑いながらとんでもないことを言った。
噂について質問をされる予想はできても、早苗が私の秘密を知っているとは、まったく思っていなかった。
「どうして知ってるの?」
「目は口ほどに物を言う、ってね」
じゃあね。そう言って早苗は小走りで離れていく。
私はバスの噂なんて信じていない。
でも、私を応援してくれる親友のためにも、何より私自身のためにも。
「一度だけでいいから、窓のないバスに乗ってみたい。」
思わず口に出た私の本音は、白い吐息となって、冬の夜空に溶けていった。
*
自分よりも背の高い時刻表の横に立ち、しばらくの間夜に浸る。
夕刻の面影はもうすでに消えていて、澄んだ空には星が散らばっていた。
私は、冬が嫌いだ。バス停でひとり寂しく待つ間、寒くて凍えてしまうから。
私が待っているのは、バスだけではなかった。
早苗に指摘されたように、私はある人を探していた。
その人はいつも、私がバス停に着いた時にはいない。
でも、こうして待っていれば、必ずカバンを右肩に下げて歩いてくる。
仲良し三人組の真ん中で、一際大きな体が、からからと笑いながら近づいてくる。
私が三本目のバスを見送った後、矢島貴斗(やじまたかと)はバス停にやってきた。
矢島貴斗とは、私の好きな人の名前だ。
話すどころか、声をかけたこともないため、頭の中ですらどう呼んでいいかわからず、結局フルネームで呼んでしまう。
私は列の先頭にいて、その五人ほど後ろに並ぶ彼は、名前も知らないA君・B君と楽しそうに話している。
彼らの笑い声を聞きながら、私の胸の内に、いつも通りの葛藤が蘇る。
今日こそ話しかけてみようかな。
次に来るバスが、窓のないバスでありますように……。
やがて、窓のある普通のバスがやってきて、私は勝手に落胆してそれに乗り込む。
この時間帯はサラリーマンの退勤ラッシュが重なり、席に座ることは滅多にできない。
それでも、先に彼が降りてしまうまでの 十分間にも満たない道のりで、私は車内の熱気とともに、たしかな幸福に包まれていた。
田舎のバス特有の大きな走行音のせいで、次のバス停を告げるアナウンスの声は聞こえない。
だから、私は窓の外を見ながら、今どこにいるのか確かめる。
バスはどのくらい走ったのだろう。
矢島貴斗は、どこにいるだろう。
私は、窓の外の暗闇と窓ガラスの反射を利用して、彼の車内での居場所を探しては、その姿を眺めていた。
たとえ直接話せなくても、彼が友人たちと笑っているだけで、今日一日がとてもいいものに思えてくる。
そう思えるのも、このバスには窓があるからで、窓のないバスだと、これができない。
でも、ただでさえ厄介な今の季節は、バス停での肌寒さに加え、バスの中でも私の邪魔をする。
私は、冬が大嫌いだ。
車内の湿気で窓ガラスが曇って、彼の姿が眺められないから。
間もなくして、彼はバスを降りていった。
それから十分後、私も忘れずにバスを降りる。
街灯の少ない暗い夜道で、外の空気と車内との気温差が、いっそう身に堪(こた)えていた。
最近は好きな人を眺めることさえできていない。
そんな寒々しい気持ちの中で、今日も一日が終わっていく。
*
「窓がないバスってなんかエロくね?」
教室の後ろから、クラスの男子の幼稚な声が聞こえてくる。その声はどこか浮かれていて、今がテスト期間であることを私に実感させる。
不思議なことにテスト期間が始まると、教室の雰囲気はいつもよりも明るくなるのだ。
試験という名の試練が待っていることも忘れて、部活動が休みという特別なイベントが、自ずとみんなを笑顔にする。
「どうしたの、浮かない顔して。」
私はというと、そんな周りの明るい雰囲気に、まったく馴染めないでいた。
テスト勉強と"もうひとつの悩み"が、ただでさえ葛藤ばかりの、窮屈な心をしめつける。
「全然進展してないんだね」
私の恋心を知っている早苗は、今では頼もしい相談役になっていた。
「でも、今はもっと厄介な悩みがあるけど」
そう言って、私たちは苦笑いした。
さっきから教室の後ろで騒いでいる、幼稚な男子たちの猥談。
たとえ耳を塞ごうとも聞こえてしまうその声に、私はいつになく苛立っていた。
私が必死に探している窓のないバスを、あんな下品な会話の話題にしてほしくなかった。
きっと矢島貴斗なら、そういう話はしないのだろうと思う。
いつ見かけても落ち着いている彼は、たとえそういう話を振られても、笑って相手にしないに違いない。
私はそんな彼の大人びたところが好きだった。
私の彼に抱く好きという感情は、家族や早苗に対して抱くものとは全然違う種類のものだ。
でも、それがどのようなものかというと、まったく言葉にできずにいる。
言葉にできなければ、告白もできない。
そうやって言い訳ばかりして、私はいつまでも前に進めないでいる。
どうして彼と同じクラスじゃないのだろう。
私は、自分のくじ運のなさを呪いたくなった。
クラスが違うせいで、毎日バスでしか顔を合わせられない。
先月の修学旅行だって、クラスが同じなら、どれだけ楽しかっただろうかと思う。
もちろん、早苗とお菓子を食べながら話した、移動中のバスは楽しかった。
でも、バスだと新幹線みたいに、席の移動が許されない。
私は違うクラスの矢島貴斗を、一度も眺めることなく修学旅行を終えた。
いや、たとえバスではなく新幹線だったとして、席の移動が許されたとしても、いったい私に何ができたのか?
くじ運もない上に意気地なしな私は、窓のないバスの力を借りることでしか、矢島貴斗と結ばれない。
そのような自分に対する諦めの気持ちが、窓のないバスへの憧れを、日に日に募らせていくのであった。
*
それから三週間はあっという間だった。
十二月半ば。クリスマスまであと一週間ということで、世間はすでに賑わっていた。
イルミネーションという物理的な色だけでなく、こんな田舎の地域でさえ、街の雰囲気そのものが艶やかに色づいて見えた。
街全体が明るくなり、テストも終わり、本来なら浮かれているはずの私は、いつになく気持ちが沈んでいた。
この三週間、矢島貴斗との進展はなく、窓のないバスも見られなかった。
実は、私はテスト勉強もそっちのけで、窓のないバスを見るための作戦を立てていた。
矢島貴斗と一緒に乗ることは一度諦め、まずは窓のないバスが、本当に存在するのかを確かめたかった。
そのために私は、テスト勉強の時間も削って、冬の寒さにも耐え、いつもよりも長い時間、バス停でバスが来るのを待っていた。
はじめは期待で胸が膨らんだ。
それが次第に焦りに変わり、二週間が経つとバスを眺めることに飽き始め、三週間目になってようやく諦めがついた。
そもそも見ることができたところで、好きな人と一緒に乗らなければ意味がない。
こんなにも遭遇する確率が低いのに、一緒に乗ろう
なんて誘ったりすれば、それこそ矢島貴斗に嫌われてしまう。
でも、諦めはいつだって次の挑戦を生む。
私は落ち込むのも束の間、すぐに別の作戦を立てた。
窓のないバスを話題にして、彼に話しかけることに決めたのだ!
バスの存在が噂話でしかない今、それをネタに急接近することは、窓がないバスへの最良の"乗り方"だと、私はひとりほくそ笑んだ。
勉強不足のために三科目も追試に引っかかった私は、良くも悪くもやけになっていた。
私は矢島貴斗と同じバスに乗るためには、どの曜日が最適かを知っていた。
それは、この三週間で得ることができた、唯一の収穫と言ってもよかった。
毎週水曜日だけ、矢島貴斗はひとりでバスに乗る。
A君は最近彼女ができて、自転車で登下校するようになった。また、B君は水曜日だけ、学校近くの塾に通い始めた。
そして、ある水曜日の放課後、私はいつも通り早苗と別れると、おしゃれな防寒具に身を包み、矢島貴斗が来るのを待つことにした。
彼はサッカー部に所属していて、練習後の片付けや着替えなどがあるから、吹奏楽部の私よりも学校を出る時間が遅い。
窓のないバスに乗るのを諦めたのなら、バス停ではなく学校の正門で待っていればよかったことに今更気づく。
私はどうしようもなく緊張していて、いつもは寒さに凍える体が、この時は別の理由で震えていた。
震える私の目の前の道路を、鮮やかな車のライトが、何十何百と通り過ぎていく。
矢島貴斗がやって来たのはいつも通り、三台目のバスを見送った直後だった。
まだ列には私しか並んでおらず、彼は必然的に私の隣に立つことになる。
これも、すべて計算通りだった。友人たちと並んで歩く時より、彼一人の方がバス停に早く着く。
そのため、普段の到着時刻から逆算すると、彼がやって来た時にはバス停の列はちょうどリセットされている。
道路の方に向いて俯いていた私は、彼が隣に立った時、意を決して顔を上げた。
窓ガラスの反射は使えないから、私はまっすぐに面と向かって、初めて彼に声をかける。
「私と一緒にバスに乗りませんか?」
矢島貴斗は一瞬困った顔をした。
それから、すぐに、いいですよと笑ってくれた。
自分に対して向けられた笑顔を直視できずに、私は再び俯くのだった。
その後、バスが来るまでの数分間、私と矢島貴斗はなんでもない話をした。
彼との初めての会話は、びっくりするほど盛り上がった。それは、彼が思いの外(ほか)お喋りで、私よりもたくさん話してくれたためだった。
「サッカー部って、いつもこんなに遅いんだね」
「練習時間も長いけど、俺の場合、着替えるのが遅いんだよね」
彼は体が大きいから、狭い部室では着替えるのに時間がかかるらしい。
そのせいで、彼は部室の鍵を返しに行かなくてはならず、いつも帰りの時間が遅くなるのだという。
「でも、俺、この時間の空が好きだな」
矢島貴斗はそう言って空を見上げる。私もつられて上を見る。
視線の先には矢島貴斗が教えてくれた、綺麗な星空が広がっていた。
「冬の空が澄んで見えるのは、空気中の水蒸気の量が少ないから。だから、透明な空では、星が普段よりも綺麗に輝く」
まるでプラネタリウムのナレーションのように、低い声が隣から聞こえる。
「よく知ってるね」
私が素直に感心すると、この前の理科のテスト範囲だったじゃん、と矢島貴斗はからからと笑った。
その笑顔はまるで空から降ってきたみたいで、彼の背丈がバス停の時刻表よりも、ずっと高いことを初めて知った。
再び視線を夜空に戻すと、いっそう星が輝いて見えた。
あんなに嫌いだった冬という季節が、私は大好きになっていた。
それから数分後、あっという間にバスはやってきた。
そのバスはどこからどう見ても窓のある、いつも通りのバスだった。
相変わらず乗客の数は多いけど、この日はたまたま席が空いていた。
それも、まるで私たちのために用意されたような、隣がけの二座席が。
私が窓際で、その隣に矢島貴斗が腰かける。
星空の下ではわからなかった大きな体の熱気が、狭い座席ではものすごく近くに感じられる。
「汗臭くない?」と聞いてくる彼に、「全然大丈夫。」と私は答える。
本当は、全然大丈夫じゃない。
いつもは走行音にかき消されて聞こえない声が、今は隣で笑っている。
それだけで私の胸は、周りに聞こえそうなくらいにうるさく鳴っている。
うるさいのは胸の鼓動だけではなかった。
目は口ほどに物を言う。私は早苗に指摘されたことを思い出して、なるべく視線を彼から遠ざけた。
自分の内側で暴走する気持ちを、彼に悟られたくなかったから。
それでも、少しでも彼の方を向いていたくて、私の視線は窓の存在を、すっかり忘れてしまっていた。
私にとって、このバスには窓がないも同然だった。
そう、たしかにこの瞬間、私の乗っているバスには窓がなかったのだ。
もちろん、そのことに私は気づいていない。
視線の先には大好きな人がいて、それは決して、窓ガラスに映る虚像ではない。
私には矢島貴斗しか見えておらず、他の乗客も、窓ガラスも、この時には存在していなかった。
車内のアナウンスもまったく聞こえず、彼が隣にいるという実感だけが、私の世界のすべてになる。
私が窓のないバスの正体に気づいたのは、矢島貴斗が大きな体を座席から浮かせた時だった。
「ここ俺の降りるバス停だから」
まるで魔法が解けたように、私ははっと我に返った。
もっとたくさん話したいことがあったのに、夢のような時間を乗せて、バスは順調に進んでいたのだ。
矢島貴斗が、足元に置いていたカバンを、いつも通り右肩に掛けようとしている。
その事実が、私を奈落の底に突き落とす。
私と違って、彼には窓は見えてたんだ。
もうこれで最後なのかな。
それでも、
「また明日」
私は最初、聞き間違いかと思って、何も言えずに呆然としていた。
そのうちに、彼はバスを降りてしまった。
でも、私はたしかに聞いた。
目が合った彼が、低い声で言った、たった五文字の魔法の言葉。
私の体は勝手に動いて、制服の袖で窓を拭(ぬぐ)った。
窓ガラスの曇りが乱雑に消されて、その奥ではぼんやりとしたシルエットが、こちらを向いて立っていた。
自分の息で見えなくなる窓を、再び拭って、諦めた。
その諦めは、すぐに私を次の行動に移させる。
慌てて窓を開けると、彼はまだそこに立っていた。
動き出そうとするバスのエンジン音に負けじと、私はめいっぱいの声で叫ぶ。
「矢島君!また明日!」
矢島君は、手を振ってくれた。
私も、負けじと手を振り返す。
私は、彼に対して抱く"好き"という感情を、ようやく言葉にすることができたと思った。
彼に対する私の"好き"は、周りのすべてを見えなくさせる。
やがて彼の姿が完全に見えなくなった時、私の目の前には、あるはずの窓がないことに気づいた。
澄み渡る冬の夜空が、何にも邪魔されずに、私の目の中に飛び込んできた。