夜に咲く花の見る夢は

作家: 不知火昴斗
作家(かな): しらぬい あきと

夜に咲く花の見る夢は

更新日: 2023/06/02 21:46
歴史、時代、伝奇

本編


 眼のあたりに看る春色 流水のごときを
 今日の残花は 昨日開きしなり

崔恵童「宴城東荘」より

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 満月の夜であった。

 人が住まうこと久しくなく、誰も寄り付かぬ古寺の脇、そのすぐ近くに、昔から細々と流れ続ける小川があった。
 川の畔には誰が植えたのか、大きな桜が一本。今が見頃と咲き誇るその下に、一人の少女が座っていた。
 月光に照らし出された少女の年の頃は、十六、七か。白く透ける肌と、朱をひいたように艶やかで小振りな唇。眦《まなじり》は垂れて愛らしく、綺麗に切りそろえた長い髪は、ぬばたまの輝きを放っている。
 肌と変わらぬ色をした小袖と、夜目に鮮やかな朱色の帯。その上に羽織るは、朱鷺色の打掛。身頃と裾に散る白い小さな花は、上の桜が水面に映り込んだかのようにも見える。
 灯は一つもないが、月光に照らされ周囲は青白く、桜にいたっては仄かな輝きまで放つ。まさに、霞みか雲か。その光景、夢のごとし。
 そのさなか、少女はひとり、桜の根元に座していた。時折、ほころび散ってゆく花弁に手を伸ばし、愛おしそうに触れてはみるものの、特に何をするでもない。
 草木も眠る丑三つ時。ともすれば途切れがちになる小川のせせらぎの他に、音をたてるものなどありはしない。側を通りかかる者など居るはずもなく、静寂は静寂のまま、闇夜の中で永久に《とこしえ》たゆたっているかと思われた。

 いずこからともなく響くかわいた音に、少女ははっと顔を上げた。
 下駄の音であった。
 おそらくは男のものであろう。足音はしっかりとして淀みなく、真直ぐこちらへと来るようだ。近くなる足音に、少女は佇まいを直し、その黒曜石のような眼《まなこ》でじっと闇の向こうを窺い見る。
 果たせるかな。ほどなくして、一人の男が姿をあらわした。
 背の高い、若い男だった。藍色の上掛けを羽織り、左手は袖の内に収め、右手には洋杖を握っている。
 男は小川の土手を歩きつつ夜空を眺めていたが、自身の行く手に待ち受ける桜と少女に気付き、歩みを止めた。
「これはこれは」
 何度か目を瞬かせ、目の前の光景を見つめる。そして、そろりと少女の方へと歩み寄り、訊ねた。
「お嬢さん、こんな夜更けにどうされた」
「花を見ております」
 蚊の啼《な》くようなか細い声ではあったが、少女は男から眼をそらさずに云った。
 男は、ほうと呟き、目を細めた。
「私は、結城麟太郎。怪しい者じゃない。しがない物書きだ」
 男――麟太郎は袖に入れていた手を出すと、その手で頭をかきながら苦笑した。
「なぁに、ちょいと原稿に詰まっていてな。こんな時間だが、あまりに月が明るいものだから、気分転換がてらに散策をしようと思って。それで、気紛れついでにこちらへと足を伸ばしてみたんだが、はて……よもやあんたのような別嬪《べっぴん》さんに出逢うとは」
 そして、ふと思い付いたように顔をほころばせた麟太郎は、少女に向かって云った。
「隣に座っても構わんかね。こんな見事な桜も久しぶりだ。ここで逢うたのも何かの縁だし、よければ、暫く私と話でも」
 男にしては柔和な顔つきをしている麟太郎。この何とも柔らかい笑みを前にしては、どんなに警戒しようがその気持ちも途端に萎える。少女も、麟太郎が悪人ではなさそうだと判断したのか、小さく頷いてみせた。
「酒はなくとも花には酔える。昔噺を肴《さかな》に花見と洒落込むのも、乙なもんよ」
 少女の傍らに腰を降ろした麟太郎は、洋杖を桜の幹に立て掛け、それから両腕を袖の内にしまった。
 暦の上では春でも、夜ともなればまだ寒い。吐く息は微かに白く、ちらちらと舞う花は、まるで粉雪が降るかのようである。

「さて、何を話そうか」
 思案顔で少女を窺う麟太郎だが、少女は何も答えない。僅かに小首を傾げ、麟太郎が口を開くのをじっと待つのみである。
 麟太郎は苦笑を漏らし、
「そうさなぁ……では、折角だから、桜にまつわる噺《はなし》でも」
 その言葉に、少女は微笑み、頷いた。
 麟太郎は目を細め、おもむろに口を開いた。
「昔……遠い昔、まだ都が京にあり、公家やら何やらが牛車に乗ってた頃だ。都に、琴の名手がおってな。その者が爪弾く音は可憐でありながらときとして凛と響き、聞くものを魅了してやまなかったという。
 透き通るように美しいと評する者がおれば、酒でも飲んだように頭が不確かになるほどの酔いをおぼえた者もいると聞く。そんな具合に、ひとつとして姿の定まらぬ、何とも不思議な音色であったそうだ。
 あるときなどは、奏でている最中、芳しい香がどこからともなく漂ってきたこともあるという……そう、この桜のような、とても甘い香だ」
 麟太郎は口を噤み、視線を少女から己の頭上を覆う桜花へと向けた。少女もそれにならって、上を見上げる。
 そこには、薄桃色の雲があった。
 まるで誰かの腕《かいな》に抱かれるような、暖かな色彩。その色が、天をすべて覆うかのように広がっている。
 そよぐ風に煽られ枝が揺れれば、控えめながらも芳しい香が鼻先を翳める。陶然とした目で闇を覗けば、今にも彼方から琴の音《ね》が響いてくるのではないかとさえ思えた。
「……だが、その名手とやらの話には、ちっとばかり仕掛けがあってな」
 少女が上から隣へと視線を戻すと、子供のような笑みを浮かべが麟太郎が、同じように少女を見ていた。
「琴柱《ことじ》はわかるかね。ほれ、あの弦を支える駒みたいなやつのことだ。あれはな、普通は楓《かえで》の枝の股からつくるものなんだが、その琴の名手とやら、何を思ったのか、琴と琴柱を桜で作ったのさ」
 そう云って、袖から出した己の手で、琴柱の形を示してみせる。無骨とはまったく正反対の細く長い指をひらめかせ、麟太郎は愉《たの》しげに、謳《うた》うように言葉を紡いだ。
「私は楽《がく》については素人だから、細かいことはよく知らん。だが、音のことなら少しはわかる。
 琴の音は、弦を支える琴柱で決まるものだ。爪弾く音は変わらねど、琴柱が違えばまた別の話よ。なぜなら、それは韻《いん》であり、韻はそれだけで意味を持つものだ。そして――」
 麟太郎の手が、己の胸を示す。
「――言葉にならぬ音は、魂の響きを放つのだよ」
 
 三魂七魄。霊魂と肉体。霊魂とは魂魄《こんぱく》であり、魂《こん》は精神を支える気をあらわし、魄《はく》は肉体を支える気をあらわす。
 楽は実体を持たぬゆえに魂の言葉を放つが、人の耳はその言葉を直接聞くことはない。しかし、魄で聴き漏らす音は、魂がしかと受け止めているのである。

「ゆえに、琴に載せた桜花の喚《よ》び声に、人は知らず魅了され、群がったというわけだ。うまいこと考えたものよな。他の樹であったら、こうはいくまいて」
「なぜ――」
 それまで無言だった少女が、突然口を開いた。
「なぜ、その方は桜を選んだのですか」
「人が桜を愛でるからだ」
「なぜ愛でるのですか」
「桜の虜になっておるからだ」
「なぜ、人は桜の虜になるのですか」
 少女は麟太郎に問い続けた。問うたびに肩から髪がこぼれ、さらさらと音をたてて揺れていた。まるで、風に枝鳴る桜のように。
「わからんか」
「わかりませぬ」
 きっぱりと答える少女に、麟太郎は苦笑を漏らした。
 そんな麟太郎を、少女は不思議そうに眺めるだけである。
 麟太郎はひとしきり笑ったあと、軽く咳払いをし、少女へと向き直った。
 相変わらずどこか遠くを見つめているような眼差しではあったが、そこには柔らかな色が浮かんでいた。
「桜はな、人の魂を吸い寄せるからだ」
 淡く色付いた花がひとつ、綻《ほころ》んだ。
 静かに舞い落ちるひとひらを、麟太郎は手を広げ、受け止める。
「桜を見ていると、我を忘れるだろう。白さにぼうっとなって、正体をなくす。そういうときってのは、体からは魂が抜けている。つまりは、魄から魂が抜けてしまっているのだな。
 桜は、そうやって抜け出た魂から、ほんの少しだけ生気を分けてもらうのだ」
 麟太郎はそう云うと、てのひらの花弁に軽く息を吹き掛ける。
 再び宙を舞う花弁は折からの風に乗り、音も無く闇夜へと消えた。

「桜は、もともと根付きにくい植物だ。滋養がある土地ならばよいが、時折は人が手を加えてやらねば、その身を保つことが出来ぬ」
 麟太郎は口を噤むと、再び己の頭上を見上げた。
 仰ぎ見る枝すべてに着く小さな花弁は、月を背にし、この世のものとは思えぬ光景を創りあげていた。
 現世《うつしよ》ならぬ、幽世《かくりよ》の景色のさなか、麟太郎は少女に語りかける。
「だから、桜は人を集める。小さな花弁を一度に咲かせ、惜し気も無くそれを散らせてみせる。年に一度の晴れ舞台を見るために、人はその元へと集まる――蜜に群がる虫のように、己《おのれ》の魂の欠片、その結晶の姿に魅入られて。
 要は、魂どうしがお互いに喚びあっているのだな。だから、人は桜を愛でるのさ。例えそれが、幽世への誘《いざな》いであっても」
「それで、よいのですか」
 少女はなおも問う。
「それでも、人はよいのですか。桜のために魂を抜かれても、それでも、よいと思えるものなのですか」
 その瞳はあまりにも真摯で、切なげで。
 しかし麟太郎はそんな少女の眼差しを端然と受け止め、云った。
「人は皆、自分がいずれは死ぬのをわかっておる。全てが全てとは云い切れぬが、どうせなら綺麗に咲き、潔く死にたいと思うて、その姿を桜に求めることはあるだろう。つまりは、そういうものなのではないかな」
「そういうものなのですか」
「そういうものだ」
 二人は暫し、お互いの貌《かお》を眺め合った。
 怏々《おうおう》と寂し気な表情を見せる少女の瞳は、底のない漆黒の闇のようで、その色を受け止める麟太郎の目もまた、鏡のようにありのままを映すのみ。
 ひらひらと舞う花弁だけが二人の間に降り積もり、やがて、
「そういうものなのですね」
 少女はポツリと呟き、俯いた。

 麟太郎は苦笑し、頭を掻いた。
「なあ、お嬢さん。こういう事を訊ねるのは不粋かもしれんが、あんた、人ではないのだろう。狐狸畜生《こりちくしょう》の類いとは思えぬが、何かの化生《けしょう》には違いあるまい」
 少女は面《おもて》を上げ、頷く。
「名はあるかね」
 麟太郎が問えば、少女は降り積もった花弁の上に、指で字を書いてみせた。
「咲……夜……華……さやか、か。なるほど」
 桜を見上げ、麟太郎は微笑んだ。
「よい名だな」そして、地を覆う花弁をさらりと撫で、云った。「よければ、誰が名付けたのかを、私に教えてくれんかな」
 咲夜華はその細い腕をついと上げ、闇の向こうを指差す。その先にあるのは、荒れ果てた古寺である。

「もう随分と昔から、わたくしはここに留まっておりました」
 寺には、年老いた住職が暮らしていたという。
 変わり者で偏屈で、弟子もとらず、使用人もおかず、ただ一人。話し相手といえば、軒先の木々と、それらで羽を休める小鳥達。それと、小川の畔の桜――
「それが、わたくしでございます」
 過ぎ去った昔を想ってか、咲夜華は陶然と遠くを見遣る。実際、彼女は昔を眺めていたのであろう。ここにはもうない、遠い、遠い昔の光景を。

 だが、名付けた者はもう居ない。

「あの人は、眠るように逝きました」
 ぽつりと呟き、俯く。その眦には、纏綿《てんめん》の涙。
「花の咲く日に、わたくしを見ながら。わたくしだけを残して」
 袖で顔を覆うものの、ふとしたはずみに雫がこぼれる。
 麟太郎は月光に光るそれを見て見ぬふりをし、背を幹に預けた。

 冴え冴えとした月光の下、桜は少女と共に花弁をこぼす。
 小さな花弁は、ひらり、ひらりと風に舞い、闇の中で翻る。
 ――と、不意に、ざわざわと音を立てて枝が鳴りはじめた。山間を駆け抜けた風が、梺へと降りてきたのである。
 勢いを増した風は樹から花弁をいちどきに奪い、何処かへと走り去っていった。
 風に乗り切れず中途で放り出された花弁は、行き場を求め、まるで吹雪のような烈しさで地に降り注いだ。
 咲夜華は顔を覆っていた袖を外し、そっと立ち上がる。
「結城さま」
 麟太郎に顔を見せぬまま、少女は訊ねる。
「結城さまは……ひとは、死んだらどこへゆきますか」
 麟太郎はそんな咲夜華を傍らで見上げながら、答えた。
「さて、なぁ。朝な夕なと日が廻《めぐ》るように、魂もまた世を廻っておると云うが、実際のところは、死んでみねばわかるまいよ」
「では、桜は、死んだらどこへゆきますか。
 人の魂をいただいて、わたくしは、いつまでここに居るのでしょう。死んだらどこへゆくのでしょう」
 涙をこぼすまいと懸命に堪えているのだろう。少女の細い肩が微かに震えているのを見て、麟太郎はまた苦笑を漏らした。
「なあ、咲夜華よ。もしかしたら私も、しらずに桜《あんた》に吸い寄せられたくちかもしれん。でもな、私はそれを厭《いや》だとは思うておらんよ」
 咲夜華が、振り向く。
「先にも云うたが、人ってのは、己の散り際を桜の姿に重ねて、勝手に憧れてみたりする妙な動物だ。だがな、本当は怖いんだよ」
「怖い――」
「そうだ」
 麟太郎は頷き、立ち上がった。そうして、小首を傾げる少女の側へと歩み寄る。
「生きるは一時の幻、死ぬは一夜の夢とはいえど、やっぱり死ぬのは怖い。怖くておそろしくて、たまらんのだ。じたばたと足掻きながら死にたくないから、桜が散るように潔く死ねたらと願うのさ。そしてな、ここからが肝心な所だ。よくお聞き」
 少女の瞳を覗くように身を屈め、麟太郎はにこりと笑った。子供をあやすかのような、柔らかく、暖かい笑顔であった。
「咲夜華よ、あんたも見てきただろう。桜を見上げる人の顔を。それらはどれも輝いておっただろう。
 人はな、桜を見ることで、死んで、また生まれかわれたような、そんな気になるのだ。生まれたままの赤子のような、まっさらな心に戻れるのだ。
 例えそれが一時の夢でも幻であっても、それでも人の心は軽くなる。その為に魂を吸われても、そんなのは誰も気にはせん。だからな、咲夜華よ――」
 手をのばし、少女の髪に残った花弁をひとつ、摘む。
「嘆かなくてもよいのだよ」

 再び、風が吹く。
 白い嵐に襲われて、麟太郎は思わず身を反らし、顔を背けた。
 風になびく咲夜華の髪が漆黒の闇へと溶けてゆくのを、辛うじて目の端で捉えた麟太郎ではあったが、周囲をすべてを花吹雪に覆われてしまい、それ以上を見ることはかなわなかった。

 やがて風もすっかり止み、周囲が静寂に戻った頃。
 麟太郎はそろりと顔を上げ、周囲を見渡した。
 しかし、少女の姿はもうどこにもなく、あれだけ咲き誇っていた桜も、もはや枝に僅かな花を残すのみとなっていた。気付けば、天頂にあった月も大分傾いている。
 枝の上で春の陽射しをじっと待ちわびる沢山の若葉から、麟太郎は手の中に残ったひとひらへと目を向けた。そして、寂寞《せきばく》とした面持ちで、木の根元にひとり立ち尽くすのであった。

   †

 霞たなびく日々が過ぎ、春はうららかに匂いたつ。
 寒さに凍える夜々も次第に減り、春の気配が深まりつつあったそんなある日のこと。

 所用で隣町へと出た麟太郎は、その帰り、真直ぐ下宿には戻らずに、少し寄り道をしてみることにした。向かう先は、先日の古寺の辺りである。
 あの夜からすでに数週間が経っていた。
 その間にも陽射しは日ごとに緩み、吹く風も随分と暖かくなった。往来をゆく人々の装いはすっかり変わり、誰も彼もが春の陽気のような微笑を浮かべている。そんな浮かれた人並みから、麟太郎はひとり、そっと外れた。
 日中でも滅多に人の通らぬ道であるから、誰にも邪魔されることはない。麟太郎は愛用の洋杖を片手に、舗装のなっていない道を気侭にそぞろ歩いた。
 時折立ち止まっては、青々と茂る草の向こうで水面煌めく小川に目を細め、梢《こずえ》の上で鳥がさえずるのに耳を澄ます。
 そんな具合にのんびりと散策を続けていた麟太郎であったが、目的地に近付くにつれ、ただならぬ様子が漂っているのに気付き、歩みを止めた。

 古寺のあった場所は、すっかり様変わりしていた。
 山積みにされた木材や瓦の周囲に居るのは、揃いの作業着を着た数人の鳶《とび》職人。庭で枯れていた木々も根こそぎ掘り返され、土がきれいに均《なら》されている。
 だが、麟太郎の目を釘付けにしたのは、そのどれでもなかった。
「咲夜華」
 呟く声が空《くう》に消える。
 つい先日まで堂々とした姿をしていたであろう桜は、傷口にもみえる無惨な姿を晒《さら》す切株の隣で、静かに横たわっていた。
 そよぐ風に頬を撫でられ、麟太郎は我にかえる。
 慌てて鳶のもとへと駆け寄った麟太郎は、手近な所にいた者を掴まえて、これは一体どうしたことだと問いただした。
 突如あらわれた見知らぬ男にえらい剣幕で迫られ、鳶たちは呆気にとられるばかりであったが、そのうち一人が片付けをする手を止めて、面倒臭そうに答えた。
「お役所からのお達しでさぁ。もうここも随分と崩れかけてて、放っとくのも危いってんで……」
「いや、そうでなくてだな。私が聞きたいのは――」
 云って、麟太郎は洋杖の柄で切株を指し示した。男は、背の高い麟太郎の脇からひょいと首を伸ばし、
「ああ、あの桜ですかい」と、ようやく合点のいった顔つきで答えた。
「御覧のとおりでさぁ。今度、この一帯に工場を作るとかいう話がありましてね。ついでに、この川も埋めて、道を広げて町と繋げようってことになって。で、どうせそん時に邪魔になるだろうから、思いきって伐《き》っちまえと」
 麟太郎は鳶のあまりの返答に、茫乎《ぼうこ》として声も出ない。鳶も、そんな麟太郎を横目に、つい先日まではたしかにそこに在《あ》った桜の姿を思い、嘆息した。
「そりゃあね、おれとてあんな立派な桜を伐るのは忍びなかったよ。でも、あれだけ虫にやられてちゃ、手の施しようもないからねぇ」
 その言葉に、麟太郎は、はじめて切株に大きな虫喰い痕があるのに気付いた。よく見ると、隣に横たわる幹にも同じ痕がついている。
「上の方は、腐ってるところもあったな」
「風で枝が折れたところから、雨水が染みたんだろうよ」
「むしろ、今まで倒れずにいたのが不思議なくらいだよなぁ」
 一人の言葉に、残りの者が一斉に頷く。そして、呆然と立ち尽くす麟太郎を放って、ひとり、またひとりと片付け作業に戻っていった。
 麟太郎は暫くの間、鳶たちと切株を交互に眺めていたが、やがて開けっぱなしでいた口を閉めると、切株に向かって歩き出した。

 切株の周囲にはまだ桜の花弁が僅かに残っていた。
 麟太郎は身を屈め、その一つをそっと拾う。
 目に眩しい鮮緑色の草はもうじきに切株を追いこし、真緑の中へとその傷口を隠してしまうだろう。
 そうして月日が廻り、また春が来るまでの間に、春の霞は消えてゆく。ただ、人の心にだけ、その色と面影を遺《のこ》して。

  人の魂をいただいて、わたくしは、いつまでここに居るのでしょう。
  死んだらどこへゆくのでしょう――

 小さな花弁を眺めていると、あの晩の、あまりにも真摯な眼差しが麟太郎の胸に去来する。
 人の見ぬ桜に花は咲かぬ。
 咲いても愛でるものがおらぬなら。ましてや、名付けた者が側におらぬなら。
 おそらく咲夜華は、自分の命がもうさほど残っていないのを知っていたのであろう。それであの晩、残ったすべての命を掻き集め、最期の舞台を彩っていたのだ。
「儚《はかな》いな。人も、桜も。本当に、儚いものよ」
 麟太郎は苦い笑みを浮かべ、呟いた。

 土の香を含んだ風が颯爽と駆け抜ける。
 青い風は小さな子供のように悪戯で、ぼんやりとしたままの麟太郎の掌から、薄桃色の花弁を攫《さら》っていった。
 それを目で追い、麟太郎は思う。
 咲夜華が姿を消す直前、幼さを残した貌に微かな笑みを浮かべたように見えたのが、己の思い違いなどでなければよいのだが、と。

 花弁は音もなく空に消えてゆく。
 ひらひらと舞うその様子はまるで、魂の欠片が現世を名残り惜しんでいるかのようにも見えた。

[了]
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