絃詩二重奏
絃詩二重奏
更新日: 2023/06/02 21:46現代ドラマ
本編
「おはよう」
「お母さん、おはよう! 絃《いと》ちゃん、お部屋で食べるみたいだから、私が運ぶよ!」
「そう……ありがとうね。用意してくるわ。あなたのご飯も持ってくるわね」
「うん」
少し悲しそうな顔に変わった母は、ふぅっと息を吐きながらキッチンの方へ歩いて行った。私はその後ろ姿を見送り、笑顔を引っ込めて、ダイニングテーブルの自分の席に座った。それから、ちらりと隣にある絃ちゃんの席を見る。ここに二人で並んで座ることは、今はもうない。
私、佐伯詩《うた》の姉である絃は、一年前に交通事故で亡くなった。中学校からの下校中のことだ。一緒にいた私も巻き込まれ、一時は危ない状態になったらしいけど、奇跡的に意識を取り戻した。
でも、私が寝ている間に葬儀は終わり、残ったのは仏壇と、私と同じ部屋にある勉強机や小物だけだった。
私たちは一卵性の双子で、大抵の人は見分けがつかない程、外見が似ている。小さな頃から、よく入れ替わっては人を混乱させて遊ぶという、少し捻くれたこともしてきた。でも、内面は正反対だった。私は明るくて元気が取り柄。絃ちゃんは大人しくて、穏やかな子。
元気しか取り柄のなかった私は、現在、詩と絃ちゃんの二人を演じている。全ては、母のためだ。母は絃ちゃんのことをとても大事に想っていたからか、目を覚ました私のことを『絃ちゃん』と呼んだのだ。両親は決して、私と絃ちゃんを間違うことはなかったのに。
病院で目が覚め、私だけが助かったのだと聞かされた時は、私の半身が無くなったのだと絶望した。すべてがお揃いで、いつも一緒にいて、仲が良くて、自分たちでも入れ替わった時に違和感がない程だった。絃ちゃんの考えることもやりそうなことも分かったし、絃ちゃんも私のことは何でも分かっていた。そんな自分の一部を失ったのだから、私の絶望は言葉では表すことなんてできない。
心も身体もズタズタに引き裂かれて、痛くて痛くて、私は事故から半年ほどの記憶が曖昧になっている。生きる希望も楽しさも喜びも、何もかもを失い、笑顔を失い、泣くことさえ出来なくなった私に、母は言った。
『あなたが笑顔にならないと、あの子も悲しむわよ』と。その時の泣きそうな母を見て、私は自分だけが悲劇のヒロインになりきっていたことに気付いた。
母だって、父だって、悲しくないわけがないのに。時々目を腫らしながら笑う母。それを辛そうな顔をして宥める父。でも、一番は私のことを痛ましい表情で見る両親が思い出される。
この時、思ったのだ。恐らく、母はショックで絃ちゃんが死んでしまったことを受け入れられないのではないか、と。もし私のことを『絃ちゃん』だと勘違いしているのなら、母を騙してしまえばいい。私が母の好きな絃ちゃんになればいいんだ、と。
それから、私の二役の生活が始まった。
絃ちゃんは事故のショックで、部屋に引きこもるようになったということにした。時々、私が『絃ちゃん』として、姿を見せれば疑うことはないだろう。だけど、私は一人しかいないから、絃ちゃんと詩が並ぶことだけは無くなってしまった。「はい、どうぞ」
「ありがとう。いただきます!」
手を合わせて元気よく言った私の言葉に、母が優しく微笑んでくれる。私の前ではほとんど見せなくなったけど、まだ辛い表情をすることがあるのを知っている。
夜、お茶を取りにキッチンへ行った時に、リビングで母が泣いているのを見た。私が学校へ行こうとして、忘れ物に気付いて戻った時に、悲しそうな顔をしていたのを見てしまった。
私では力不足なのかもしれない。引きこもっているのだから、死んでいないと思い込んでいても、それすら悲しいはずだ。
でも、詩を消してしまうわけにもいかないし、いくら双子とはいえ、ボロが出てしまっては私の嘘が明るみに出ることになる。そんなことを考えながら、程よく焼けたトーストにパクリとかじりついた。サクフワの食感と、口の中に広がったバターの芳醇な味わいに、胸が苦しくなる。絃ちゃんの大好きだった母が焼いた食パンだ。好みは似ていたけど、絃ちゃんはパン派、私はご飯派。それだけは双子でも何故か違った。
「学校に遅れるわよ」
「はーい」
目の奥が熱くなるのを笑って誤魔化し、急いで食べて、母から絃ちゃんの分を受け取ってから、部屋に戻った。ドアを開ければ、誰もいない静寂に包まれた空間があるだけだ。
秋も終わりに近づき、肌寒くなってきた。でも、室温以上に体感は寒くて冷たくて、肌に刺さるように痛い。絃ちゃんがいた時は、冬でもなんとなく暖かかったのに。そんなことを思いながら、私は母の作った朝ご飯を絃ちゃんの机に置いた。
ここからが大変だ。私は自分の分を食べた後、絃ちゃんの分を食べる。苦しくて仕方が無いけど、母の想いを捨てることなんてできない。その代わり、太るわけにもいかないから、給食をあまり食べないようにしている。私は悲しくて食欲が無いのだと、皆が思い込んでいるのを利用しているのだ。そんなところでも、私の胸はキシキシと音を立てて軋む。
「瑛祐《えいすけ》くんが来たわよ」
「うん、分かった」
私は空になった食器を流しに入れ、急いで玄関から飛び出した。門の前に立っているのは、幼馴染みの北島瑛祐くん。私達がここに引っ越してきた3歳の頃から付き合いがある、同級生だ。
「瑛ちゃん、おはよう」
「絃は?」
私が門を閉めている間に、私に声をかけつつも、歩き始めた瑛ちゃんの隣に慌てて並ぶ。瑛ちゃんはぶっきらぼうで、ちょっと意地悪だけど、私にも絃ちゃんにも優しかった。こうして、事故の後、私が学校へ通えるようになってから、瑛ちゃんは毎日迎えに来てくれる。
でも、毎朝、最初の台詞は『絃は?』だ。瑛ちゃんも、絃ちゃんが好きだったから。
だから、瑛ちゃんも絃ちゃんが死んでしまったことを信じたくないんだと思う。でも、母とは違うところがある。瑛ちゃんは、ちゃんと絃ちゃんが死んでしまったことを理解しているのだ。
「絃ちゃんはいないよ」
「そうか」
どうして、当たり前のことを毎日聞くのだろう。『いないよ』と答えるのは、すごくすごく悲しいのに。どうして瑛ちゃんは、わざと私が悲しむような質問をしてくるのだろう。
そうか、と言って、真っ直ぐ前を向いて歩く瑛ちゃんを隣から見つめる。瑛ちゃんの目は、いつも前を見ている。絃ちゃんが死んだ時も、私の前では絶対に泣かなかった。
まだ包帯が取れない頃、瑛ちゃん家族がお見舞いに来てくれた時のことが、私は忘れられない。瑛ちゃんは私を真っ直ぐ見て、『絃じゃない』と言ったから。生き残った私のことを聞かずに、絃ちゃんのことを最初に聞いてきた瑛ちゃんに、腹が立った。
『当たり前だよ。私は詩だよ』
私は確か、そう言ったと思う。その言葉に病室に居た全員が、息を飲んだのが分かった。
どうして今更、皆は驚くの?
私よりも皆の方が、絃ちゃんがどうなったのか知ってるくせに。私だって、子どもだけどちゃんと理解してる。私だって、絃ちゃんが大好きだ。生きていて欲しかった。
でも、生き残ったのは、詩の方だった。私は本物の絃ちゃんにはなれない。
だから、私がこれからもずっと絃ちゃんの想いを抱えて、一緒に大きくなっていく。きっと絃ちゃんなら、一緒にいたい気持ちを分かってくれるから。
***
今日も学校が終わり、真っ直ぐ家に帰る。私は陸上をやっていたけど、事故の影響であまり走れなくなってしまったから辞めた。
それに、今の私には陸上以上に大切なことがある。もちろん絃ちゃんにならないといけないのだ。昼間は部屋にこもっていることになるから、早く絃ちゃんになって、母に会ってあげないと、母が寂しい思いをしてしまう
「ただいまー!」
「おかえり、おやつあるわよ」
「やった! 私はやりたいことがあるから、部屋で食べるね。絃ちゃんにも伝えるから!」
「そうね。お願いね」
タタタッと軽快な音をさせて、階段を駆け上がる。勢いよくドアを開けて、静かな部屋に足を踏み入れた。
「……絃ちゃん、ただいま」
返事が返ってこないと分かっていても、つい言ってしまう。もしかしたら、『詩ちゃん、おかえり』って、絃ちゃんの声が返ってくるんじゃないかって。そう思って、思わず泣きそうになった。
私も母のことは言えない。まだ、絃ちゃんがいないことを受け止めきれていないのかもしれない。胸にツキンと鋭い痛みを感じ、制服を握り締めて耐える。
大丈夫、大丈夫。私は元気に笑っていなくちゃいけないの。お母さんを元気にしてあげなきゃ。そうしたら、きっと絃ちゃんも喜んでくれる。
そう自分に言い聞かせ、制服から私服に着替え、絃ちゃんに変わってから、再び部屋を出た。今度は静かにゆっくり、ほとんど足音を立てずに、リビングに入った。そこにはもう母がおやつの用意をしてくれていて、いつもの優しい笑顔を見せてくれる。
「お母さん、いつもごめんね」
詩よりも少しだけ小さな声。慎重に慎重に。
「あら、何も気にしなくていいのよ。ゆっくりやっていきましょう」
悲しそうじゃない母の様子に、ホッと息を吐く。まだ詩を絃だと思ってくれている。
「今日のおやつは、胡桃のパウンドケーキなんだ。嬉しい」
「あなた、大好きだものね」
「うん、ありがとう」
今日も絃の大好きだった物だ。
母は絃の方がかわいいのかな。詩じゃなくて絃が生き残れば、もっと早くに元気になってたのかな。
じわじわと胸の奥から暗い靄が立ち上る。
詩には生きていて欲しくなかったのかな。
靄が膨らみ、身体も心も覆って、底のない闇へと引きずり込もうとする。
絃はどう思ってるんだろう。絃も、自分じゃなくて詩が死ねばよかったのにって思ってるのかな。こんな演技をするんじゃなくて、本当にこっちが現実ならよかったのにって、そう思ってるのかな。
詩はいらなかった……?
「はい、今日はストロベリーティーにしたわよ」
「あ……ありがとう」
これは、詩が好きだったもの。ちゃんと詩が好きなものも用意してくれてたんだ。立ち込め始めていた靄が、ゆっくりと霧散し始める。
マグカップを顔に近づけ、香りを胸いっぱいに吸い込んだ。この香りが詩は大好きだった。アップルティーでもなく、アールグレイでもなく、詩はストロベリーティーがいいと、よく言った。母がそれを覚えていてくれたことは、とても嬉しい。
詩もいてもいいんだって、母が言ってくれてるみたいだ。絃の好きなものと、詩の好きなもの。忘れていたけど、いつも母はそうやって平等になるように用意してくれていたかもしれない。
詩のことはいらないなんて、思ってはいなかったかもしれない。詩も絃も大事だと、そう思ってくれていたのなら。今でもそう思ってくれているのなら。それが一番の幸せだ。
おやつを食べ終え、部屋に戻ろうとしたところを母に呼び止められた。
「今日、お父さんが早いから、一緒にご飯食べない?」
それなら、詩は理由を付けて部屋にいないといけない。でも、確かに最近絃として父に会っていなかった。
「分かった。詩ちゃん、さっき受験勉強してたから、もしかしたらご飯いらないって言うかもしれないよ」
「そう……じゃあ、お夜食を用意しておくわ」
「うん、伝えておくね」
食欲が落ちている絃が夕飯を少なく食べて、詩の分の夜食を食べる。うん、なんとかいけそうだ。
そう思って、母に笑顔を見せてからリビングを出た。ドアを閉める時にチラリと見えたのは、嬉しそうにしながらも、泣いてしまいそうな。そんな複雑な笑顔の母だった。
「お父さん、おかえりなさい」
「あぁ、調子はどうだ? 無理してないか?」
仕事から帰ってきた父から鞄を受け取る。私には重たくて大きな鞄だ。この重さが父の背負う家族の命を表しているように感じ、絃がいなくなって、少し軽くなってしまったのだろうか、と変なことを考えてしまった。
「大丈夫だよ」
「それならいい。お前が笑ってくれていると、父さんも母さんも嬉しいから」
「……うん」
父は、私の嘘を知っている。今は絃であることも分かっているはずだ。だから、今の言葉は絃に対してでもあり、詩に対してでもあるのだろう。嘘に付き合って、父は何を感じ、何を考えているのか。あまり表情には出さず、いつも鷹揚に構えている父の心中は、子どもの私には計り知れない。
それから、久しぶりに絃として食卓についた。
「お母さん、美味しいよ」
絃の好きな海老フライと、詩の好きなヒレカツ。いつもセットのように出てきたことを思い出す。母は絃が生きていると思っているから、絃の好きなものを出してくれるのだろうか。
絃がいないという現実に気付いても、こうしていつまでも忘れずにいてくれるのだろうか。
絃が恋しくて、詩を忘れることはないのかな。詩しかいなくても、絃を忘れることはないのかな。絃のことも詩のことも、忘れないで欲しい。ずっと、四人で過ごしていきたかったのに。
そんなことを思いながら、三人での夕食を終えた。父も母も嬉しそうに笑っていた。久しぶりに見るような、幸せそうな笑顔。どうしてだか、この日からその笑顔が頭から離れなくなった。
***
高校受験の話が本格的になったある日。
気分転換にテレビでも観ようかとリビングへ行った時、テーブルの下に落ちている物を見つけた。恐らく何かの拍子に落ちたのだろう。そう思って、拾い上げたのは役所の封筒だった。
この時、私はどうかしていたんだと思う。普段なら、勝手に親の物に見たりしないのに、この時は迷うことなく封筒を開いていた。
中から出てきたのは、世帯全員分の住民票。ああ、受験にいるのかな。そう思ったけど、次の瞬間、氷を背中に押し付けられたような強い不快感と恐怖感を抱いた。
そこに、詩が、いなかったから。
どうして、絃しか載ってないの?
私は?
私は、詩。
今、こうして生きているのは、詩のはずで、絃は死んでしまったはずなのに。
住民票が手から離れ、ヒラヒラと舞いながら落ちていく。手が震えて、足から力が抜ける。
どういうこと?
私は、誰……?
遂に足から力が抜けて、その場に座り込んでしまった。グラグラと視界が揺れて、気持ちが悪くなってくる。
この感覚は、誰が感じているの?
詩?
絃?
「どうしたの?」
突然、母の声が聞こえて、そちらを見た。驚いたように目を見開いていた母が、私の近くに落ちている住民票を目にした途端、弾かれたように走ってきて、奪うように乱暴にそれを掴んだ。
「……見たの?」
「見た」
私の返事に、母は顔を歪め、唇を強く噛み締めた。
「私は、詩? それとも、絃?」
「あなたは……」
何も言わない母の代わりに聞いたのに、母は私から目を逸らして、俯いてしまった。
「……絃、なんだね?」
ビクッと震えた母の肩を見て、確信してしまった。でも、私の中はまだ、詩だ。
「お母さんは、私が死んだことを分かってたの?」
「あなたは、死んでない。死んでしまったのは、詩よ」
「分かってたんだ。じゃあ、私は一年も何をしてたんだろう」
何のための嘘だったの。私、一人でバカじゃない。
私は立ち上がり、母が何かを言いかけたことを無視して、家を飛び出した。走って走って。怪我した足がズキズキ痛んできても、冷えてきた空気が喉を刺してきても、私はひたすら走った。
「絃!」
そんな私を呼び止めたのは、たまたまその道を歩いていた瑛ちゃんだった。
「違う! 私は詩だよ。絃じゃない!」
思わず速度を落とした私の方へ瑛ちゃんが走ってきて、あっという間に腕を掴まれてしまった。
「とりあえず、うちに来い」
「やだ!」
腕を振り回しても離してくれず、私は結局、近くにあった瑛ちゃんの家に連れて行かれてしまった。
瑛ちゃんの部屋に通され、無理やり座らされる。
「お前は絃だ。死んだのが、詩。お前は意識を取り戻した時には、自分のことを詩だと思い込んでいた。だから、皆、本当のことを言えなかった」
「そんな、嫌だ。詩が死んでるなんて、嫌」
「ほら。たぶん、それだ」
「え?」
「絃は詩が好きだったから、詩が死んだことを認めたくなかったんだよ。だから、自分が詩だと思い込むことにした」
「でも、お父さんもお母さんも、学校の皆だって!」
「お前の親、事故の後、お前のことを一度でも名前で呼んだか?」
「……え」
「学校には、絃の心が壊れないようにと、詩として扱ってもらってた。俺は最初に言っただろ。『絃じゃない』って。お前は絃なのに、絃じゃなくなってるって、すぐに分かった」
「瑛ちゃん……」
「なあ、あいつが熱を出した時、二人で花をあげようって山に探しに行ったの覚えてるか?」
「あ、そういえば。迷子になって、大変なことに……」
「それは絃の記憶だ」
斜向かいに座っていた瑛ちゃんが、私の正面に胡座をかいて座り直し、私の両手を握った。私よりも少し大きくて、熱い手だ。
瑛ちゃんの言葉がじわじわと私の中に侵入してきて、さっきまで信じ込んでいたことが、蜃気楼のように揺らぎ始めた。
「詩はいなくなったけど、絃は生きてる。こうして手に触れれば、温もりがある。絃、お前の親は、決して詩を忘れないし、俺も学校の皆も忘れない。絃も詩を忘れることはないだろ?」
「当たり前だよ!」
「それなら、安心しろ。もう詩にならなくてもいいんだよ。お前は、絃だ」
一つの記憶に引きずられるように、絃としての記憶が蘇り始めた。いつの間にかボロボロと零れていた涙が、服に染みを作っていく。
私がついていた嘘は、無駄だったんだ。
「間抜けだね」
「いや。絃には必要な嘘だった」
その時、瑛ちゃんちの玄関が騒がしくなって、すぐに部屋のドアが開いた。
「お父さん、お母さん」
「嘘に気付いていないフリをしていて、ごめんなさい。でも、お母さんのためを思ってくれていることが分かったし、何より絃の心の傷が分かったから……だから、本当のことを言って、絃の心が壊れてしまうのが怖かったの」
母は私を抱き締め、涙を流しながら言った。
「私は間抜けだけど、そんな私のために、たくさんの人が私の思い込みと嘘に付き合ってくれていたんだね」
「絃が大事だからだ」
「詩ちゃんも……」
「もちろん大事な娘であることに変わりはない」
私に抱き着いて泣いていた母の背中と、私の頭に大きな手が乗る。
「絃。これからは、詩を大切にしながら、絃として生きていってくれないか?」
「詩ちゃんを、大切に」
「心の中からいなくなるわけじゃないだろう?」
「……うん」
それから、私たち家族は瑛ちゃんの家族に謝って自宅へと戻ることにした。
「絃!」
門を出たところで、瑛ちゃんに呼び止められて振り返る。
「絃は、絃らしく生きろ」
その言葉の深さに、私の心は悲鳴をあげ、泣き止むことが出来なくなった。三人で家に帰り、リビングのソファーに腰を下ろした。
「絃ちゃん、ずっと嘘をついていてごめんね。でもね、お母さんのことを考えてくれる絃ちゃんの気持ちが、すごく嬉しかった。絃ちゃん、一年間、詩ちゃんと過ごさせてくれて、ありがとう」
母は私の身体を横から抱き締めて、また泣いているようだった。
「私こそ、変な思い込みをして、皆に心配と迷惑をかけて、ごめんなさい。私の拙い嘘に付き合ってくれて、ありがとう」
私の声も涙声で、震えている。
「絃。これから、幸せになりなさい。心の中の詩と共に」
「うん」
私は、絃。
双子の妹、詩は死んでしまったけど、仲が良すぎて、一緒になっちゃったんだと思うことにした。
私の嘘は、皆の優しい嘘で守られていた。
*終*
0「お母さん、おはよう! 絃《いと》ちゃん、お部屋で食べるみたいだから、私が運ぶよ!」
「そう……ありがとうね。用意してくるわ。あなたのご飯も持ってくるわね」
「うん」
少し悲しそうな顔に変わった母は、ふぅっと息を吐きながらキッチンの方へ歩いて行った。私はその後ろ姿を見送り、笑顔を引っ込めて、ダイニングテーブルの自分の席に座った。それから、ちらりと隣にある絃ちゃんの席を見る。ここに二人で並んで座ることは、今はもうない。
私、佐伯詩《うた》の姉である絃は、一年前に交通事故で亡くなった。中学校からの下校中のことだ。一緒にいた私も巻き込まれ、一時は危ない状態になったらしいけど、奇跡的に意識を取り戻した。
でも、私が寝ている間に葬儀は終わり、残ったのは仏壇と、私と同じ部屋にある勉強机や小物だけだった。
私たちは一卵性の双子で、大抵の人は見分けがつかない程、外見が似ている。小さな頃から、よく入れ替わっては人を混乱させて遊ぶという、少し捻くれたこともしてきた。でも、内面は正反対だった。私は明るくて元気が取り柄。絃ちゃんは大人しくて、穏やかな子。
元気しか取り柄のなかった私は、現在、詩と絃ちゃんの二人を演じている。全ては、母のためだ。母は絃ちゃんのことをとても大事に想っていたからか、目を覚ました私のことを『絃ちゃん』と呼んだのだ。両親は決して、私と絃ちゃんを間違うことはなかったのに。
病院で目が覚め、私だけが助かったのだと聞かされた時は、私の半身が無くなったのだと絶望した。すべてがお揃いで、いつも一緒にいて、仲が良くて、自分たちでも入れ替わった時に違和感がない程だった。絃ちゃんの考えることもやりそうなことも分かったし、絃ちゃんも私のことは何でも分かっていた。そんな自分の一部を失ったのだから、私の絶望は言葉では表すことなんてできない。
心も身体もズタズタに引き裂かれて、痛くて痛くて、私は事故から半年ほどの記憶が曖昧になっている。生きる希望も楽しさも喜びも、何もかもを失い、笑顔を失い、泣くことさえ出来なくなった私に、母は言った。
『あなたが笑顔にならないと、あの子も悲しむわよ』と。その時の泣きそうな母を見て、私は自分だけが悲劇のヒロインになりきっていたことに気付いた。
母だって、父だって、悲しくないわけがないのに。時々目を腫らしながら笑う母。それを辛そうな顔をして宥める父。でも、一番は私のことを痛ましい表情で見る両親が思い出される。
この時、思ったのだ。恐らく、母はショックで絃ちゃんが死んでしまったことを受け入れられないのではないか、と。もし私のことを『絃ちゃん』だと勘違いしているのなら、母を騙してしまえばいい。私が母の好きな絃ちゃんになればいいんだ、と。
それから、私の二役の生活が始まった。
絃ちゃんは事故のショックで、部屋に引きこもるようになったということにした。時々、私が『絃ちゃん』として、姿を見せれば疑うことはないだろう。だけど、私は一人しかいないから、絃ちゃんと詩が並ぶことだけは無くなってしまった。「はい、どうぞ」
「ありがとう。いただきます!」
手を合わせて元気よく言った私の言葉に、母が優しく微笑んでくれる。私の前ではほとんど見せなくなったけど、まだ辛い表情をすることがあるのを知っている。
夜、お茶を取りにキッチンへ行った時に、リビングで母が泣いているのを見た。私が学校へ行こうとして、忘れ物に気付いて戻った時に、悲しそうな顔をしていたのを見てしまった。
私では力不足なのかもしれない。引きこもっているのだから、死んでいないと思い込んでいても、それすら悲しいはずだ。
でも、詩を消してしまうわけにもいかないし、いくら双子とはいえ、ボロが出てしまっては私の嘘が明るみに出ることになる。そんなことを考えながら、程よく焼けたトーストにパクリとかじりついた。サクフワの食感と、口の中に広がったバターの芳醇な味わいに、胸が苦しくなる。絃ちゃんの大好きだった母が焼いた食パンだ。好みは似ていたけど、絃ちゃんはパン派、私はご飯派。それだけは双子でも何故か違った。
「学校に遅れるわよ」
「はーい」
目の奥が熱くなるのを笑って誤魔化し、急いで食べて、母から絃ちゃんの分を受け取ってから、部屋に戻った。ドアを開ければ、誰もいない静寂に包まれた空間があるだけだ。
秋も終わりに近づき、肌寒くなってきた。でも、室温以上に体感は寒くて冷たくて、肌に刺さるように痛い。絃ちゃんがいた時は、冬でもなんとなく暖かかったのに。そんなことを思いながら、私は母の作った朝ご飯を絃ちゃんの机に置いた。
ここからが大変だ。私は自分の分を食べた後、絃ちゃんの分を食べる。苦しくて仕方が無いけど、母の想いを捨てることなんてできない。その代わり、太るわけにもいかないから、給食をあまり食べないようにしている。私は悲しくて食欲が無いのだと、皆が思い込んでいるのを利用しているのだ。そんなところでも、私の胸はキシキシと音を立てて軋む。
「瑛祐《えいすけ》くんが来たわよ」
「うん、分かった」
私は空になった食器を流しに入れ、急いで玄関から飛び出した。門の前に立っているのは、幼馴染みの北島瑛祐くん。私達がここに引っ越してきた3歳の頃から付き合いがある、同級生だ。
「瑛ちゃん、おはよう」
「絃は?」
私が門を閉めている間に、私に声をかけつつも、歩き始めた瑛ちゃんの隣に慌てて並ぶ。瑛ちゃんはぶっきらぼうで、ちょっと意地悪だけど、私にも絃ちゃんにも優しかった。こうして、事故の後、私が学校へ通えるようになってから、瑛ちゃんは毎日迎えに来てくれる。
でも、毎朝、最初の台詞は『絃は?』だ。瑛ちゃんも、絃ちゃんが好きだったから。
だから、瑛ちゃんも絃ちゃんが死んでしまったことを信じたくないんだと思う。でも、母とは違うところがある。瑛ちゃんは、ちゃんと絃ちゃんが死んでしまったことを理解しているのだ。
「絃ちゃんはいないよ」
「そうか」
どうして、当たり前のことを毎日聞くのだろう。『いないよ』と答えるのは、すごくすごく悲しいのに。どうして瑛ちゃんは、わざと私が悲しむような質問をしてくるのだろう。
そうか、と言って、真っ直ぐ前を向いて歩く瑛ちゃんを隣から見つめる。瑛ちゃんの目は、いつも前を見ている。絃ちゃんが死んだ時も、私の前では絶対に泣かなかった。
まだ包帯が取れない頃、瑛ちゃん家族がお見舞いに来てくれた時のことが、私は忘れられない。瑛ちゃんは私を真っ直ぐ見て、『絃じゃない』と言ったから。生き残った私のことを聞かずに、絃ちゃんのことを最初に聞いてきた瑛ちゃんに、腹が立った。
『当たり前だよ。私は詩だよ』
私は確か、そう言ったと思う。その言葉に病室に居た全員が、息を飲んだのが分かった。
どうして今更、皆は驚くの?
私よりも皆の方が、絃ちゃんがどうなったのか知ってるくせに。私だって、子どもだけどちゃんと理解してる。私だって、絃ちゃんが大好きだ。生きていて欲しかった。
でも、生き残ったのは、詩の方だった。私は本物の絃ちゃんにはなれない。
だから、私がこれからもずっと絃ちゃんの想いを抱えて、一緒に大きくなっていく。きっと絃ちゃんなら、一緒にいたい気持ちを分かってくれるから。
***
今日も学校が終わり、真っ直ぐ家に帰る。私は陸上をやっていたけど、事故の影響であまり走れなくなってしまったから辞めた。
それに、今の私には陸上以上に大切なことがある。もちろん絃ちゃんにならないといけないのだ。昼間は部屋にこもっていることになるから、早く絃ちゃんになって、母に会ってあげないと、母が寂しい思いをしてしまう
「ただいまー!」
「おかえり、おやつあるわよ」
「やった! 私はやりたいことがあるから、部屋で食べるね。絃ちゃんにも伝えるから!」
「そうね。お願いね」
タタタッと軽快な音をさせて、階段を駆け上がる。勢いよくドアを開けて、静かな部屋に足を踏み入れた。
「……絃ちゃん、ただいま」
返事が返ってこないと分かっていても、つい言ってしまう。もしかしたら、『詩ちゃん、おかえり』って、絃ちゃんの声が返ってくるんじゃないかって。そう思って、思わず泣きそうになった。
私も母のことは言えない。まだ、絃ちゃんがいないことを受け止めきれていないのかもしれない。胸にツキンと鋭い痛みを感じ、制服を握り締めて耐える。
大丈夫、大丈夫。私は元気に笑っていなくちゃいけないの。お母さんを元気にしてあげなきゃ。そうしたら、きっと絃ちゃんも喜んでくれる。
そう自分に言い聞かせ、制服から私服に着替え、絃ちゃんに変わってから、再び部屋を出た。今度は静かにゆっくり、ほとんど足音を立てずに、リビングに入った。そこにはもう母がおやつの用意をしてくれていて、いつもの優しい笑顔を見せてくれる。
「お母さん、いつもごめんね」
詩よりも少しだけ小さな声。慎重に慎重に。
「あら、何も気にしなくていいのよ。ゆっくりやっていきましょう」
悲しそうじゃない母の様子に、ホッと息を吐く。まだ詩を絃だと思ってくれている。
「今日のおやつは、胡桃のパウンドケーキなんだ。嬉しい」
「あなた、大好きだものね」
「うん、ありがとう」
今日も絃の大好きだった物だ。
母は絃の方がかわいいのかな。詩じゃなくて絃が生き残れば、もっと早くに元気になってたのかな。
じわじわと胸の奥から暗い靄が立ち上る。
詩には生きていて欲しくなかったのかな。
靄が膨らみ、身体も心も覆って、底のない闇へと引きずり込もうとする。
絃はどう思ってるんだろう。絃も、自分じゃなくて詩が死ねばよかったのにって思ってるのかな。こんな演技をするんじゃなくて、本当にこっちが現実ならよかったのにって、そう思ってるのかな。
詩はいらなかった……?
「はい、今日はストロベリーティーにしたわよ」
「あ……ありがとう」
これは、詩が好きだったもの。ちゃんと詩が好きなものも用意してくれてたんだ。立ち込め始めていた靄が、ゆっくりと霧散し始める。
マグカップを顔に近づけ、香りを胸いっぱいに吸い込んだ。この香りが詩は大好きだった。アップルティーでもなく、アールグレイでもなく、詩はストロベリーティーがいいと、よく言った。母がそれを覚えていてくれたことは、とても嬉しい。
詩もいてもいいんだって、母が言ってくれてるみたいだ。絃の好きなものと、詩の好きなもの。忘れていたけど、いつも母はそうやって平等になるように用意してくれていたかもしれない。
詩のことはいらないなんて、思ってはいなかったかもしれない。詩も絃も大事だと、そう思ってくれていたのなら。今でもそう思ってくれているのなら。それが一番の幸せだ。
おやつを食べ終え、部屋に戻ろうとしたところを母に呼び止められた。
「今日、お父さんが早いから、一緒にご飯食べない?」
それなら、詩は理由を付けて部屋にいないといけない。でも、確かに最近絃として父に会っていなかった。
「分かった。詩ちゃん、さっき受験勉強してたから、もしかしたらご飯いらないって言うかもしれないよ」
「そう……じゃあ、お夜食を用意しておくわ」
「うん、伝えておくね」
食欲が落ちている絃が夕飯を少なく食べて、詩の分の夜食を食べる。うん、なんとかいけそうだ。
そう思って、母に笑顔を見せてからリビングを出た。ドアを閉める時にチラリと見えたのは、嬉しそうにしながらも、泣いてしまいそうな。そんな複雑な笑顔の母だった。
「お父さん、おかえりなさい」
「あぁ、調子はどうだ? 無理してないか?」
仕事から帰ってきた父から鞄を受け取る。私には重たくて大きな鞄だ。この重さが父の背負う家族の命を表しているように感じ、絃がいなくなって、少し軽くなってしまったのだろうか、と変なことを考えてしまった。
「大丈夫だよ」
「それならいい。お前が笑ってくれていると、父さんも母さんも嬉しいから」
「……うん」
父は、私の嘘を知っている。今は絃であることも分かっているはずだ。だから、今の言葉は絃に対してでもあり、詩に対してでもあるのだろう。嘘に付き合って、父は何を感じ、何を考えているのか。あまり表情には出さず、いつも鷹揚に構えている父の心中は、子どもの私には計り知れない。
それから、久しぶりに絃として食卓についた。
「お母さん、美味しいよ」
絃の好きな海老フライと、詩の好きなヒレカツ。いつもセットのように出てきたことを思い出す。母は絃が生きていると思っているから、絃の好きなものを出してくれるのだろうか。
絃がいないという現実に気付いても、こうしていつまでも忘れずにいてくれるのだろうか。
絃が恋しくて、詩を忘れることはないのかな。詩しかいなくても、絃を忘れることはないのかな。絃のことも詩のことも、忘れないで欲しい。ずっと、四人で過ごしていきたかったのに。
そんなことを思いながら、三人での夕食を終えた。父も母も嬉しそうに笑っていた。久しぶりに見るような、幸せそうな笑顔。どうしてだか、この日からその笑顔が頭から離れなくなった。
***
高校受験の話が本格的になったある日。
気分転換にテレビでも観ようかとリビングへ行った時、テーブルの下に落ちている物を見つけた。恐らく何かの拍子に落ちたのだろう。そう思って、拾い上げたのは役所の封筒だった。
この時、私はどうかしていたんだと思う。普段なら、勝手に親の物に見たりしないのに、この時は迷うことなく封筒を開いていた。
中から出てきたのは、世帯全員分の住民票。ああ、受験にいるのかな。そう思ったけど、次の瞬間、氷を背中に押し付けられたような強い不快感と恐怖感を抱いた。
そこに、詩が、いなかったから。
どうして、絃しか載ってないの?
私は?
私は、詩。
今、こうして生きているのは、詩のはずで、絃は死んでしまったはずなのに。
住民票が手から離れ、ヒラヒラと舞いながら落ちていく。手が震えて、足から力が抜ける。
どういうこと?
私は、誰……?
遂に足から力が抜けて、その場に座り込んでしまった。グラグラと視界が揺れて、気持ちが悪くなってくる。
この感覚は、誰が感じているの?
詩?
絃?
「どうしたの?」
突然、母の声が聞こえて、そちらを見た。驚いたように目を見開いていた母が、私の近くに落ちている住民票を目にした途端、弾かれたように走ってきて、奪うように乱暴にそれを掴んだ。
「……見たの?」
「見た」
私の返事に、母は顔を歪め、唇を強く噛み締めた。
「私は、詩? それとも、絃?」
「あなたは……」
何も言わない母の代わりに聞いたのに、母は私から目を逸らして、俯いてしまった。
「……絃、なんだね?」
ビクッと震えた母の肩を見て、確信してしまった。でも、私の中はまだ、詩だ。
「お母さんは、私が死んだことを分かってたの?」
「あなたは、死んでない。死んでしまったのは、詩よ」
「分かってたんだ。じゃあ、私は一年も何をしてたんだろう」
何のための嘘だったの。私、一人でバカじゃない。
私は立ち上がり、母が何かを言いかけたことを無視して、家を飛び出した。走って走って。怪我した足がズキズキ痛んできても、冷えてきた空気が喉を刺してきても、私はひたすら走った。
「絃!」
そんな私を呼び止めたのは、たまたまその道を歩いていた瑛ちゃんだった。
「違う! 私は詩だよ。絃じゃない!」
思わず速度を落とした私の方へ瑛ちゃんが走ってきて、あっという間に腕を掴まれてしまった。
「とりあえず、うちに来い」
「やだ!」
腕を振り回しても離してくれず、私は結局、近くにあった瑛ちゃんの家に連れて行かれてしまった。
瑛ちゃんの部屋に通され、無理やり座らされる。
「お前は絃だ。死んだのが、詩。お前は意識を取り戻した時には、自分のことを詩だと思い込んでいた。だから、皆、本当のことを言えなかった」
「そんな、嫌だ。詩が死んでるなんて、嫌」
「ほら。たぶん、それだ」
「え?」
「絃は詩が好きだったから、詩が死んだことを認めたくなかったんだよ。だから、自分が詩だと思い込むことにした」
「でも、お父さんもお母さんも、学校の皆だって!」
「お前の親、事故の後、お前のことを一度でも名前で呼んだか?」
「……え」
「学校には、絃の心が壊れないようにと、詩として扱ってもらってた。俺は最初に言っただろ。『絃じゃない』って。お前は絃なのに、絃じゃなくなってるって、すぐに分かった」
「瑛ちゃん……」
「なあ、あいつが熱を出した時、二人で花をあげようって山に探しに行ったの覚えてるか?」
「あ、そういえば。迷子になって、大変なことに……」
「それは絃の記憶だ」
斜向かいに座っていた瑛ちゃんが、私の正面に胡座をかいて座り直し、私の両手を握った。私よりも少し大きくて、熱い手だ。
瑛ちゃんの言葉がじわじわと私の中に侵入してきて、さっきまで信じ込んでいたことが、蜃気楼のように揺らぎ始めた。
「詩はいなくなったけど、絃は生きてる。こうして手に触れれば、温もりがある。絃、お前の親は、決して詩を忘れないし、俺も学校の皆も忘れない。絃も詩を忘れることはないだろ?」
「当たり前だよ!」
「それなら、安心しろ。もう詩にならなくてもいいんだよ。お前は、絃だ」
一つの記憶に引きずられるように、絃としての記憶が蘇り始めた。いつの間にかボロボロと零れていた涙が、服に染みを作っていく。
私がついていた嘘は、無駄だったんだ。
「間抜けだね」
「いや。絃には必要な嘘だった」
その時、瑛ちゃんちの玄関が騒がしくなって、すぐに部屋のドアが開いた。
「お父さん、お母さん」
「嘘に気付いていないフリをしていて、ごめんなさい。でも、お母さんのためを思ってくれていることが分かったし、何より絃の心の傷が分かったから……だから、本当のことを言って、絃の心が壊れてしまうのが怖かったの」
母は私を抱き締め、涙を流しながら言った。
「私は間抜けだけど、そんな私のために、たくさんの人が私の思い込みと嘘に付き合ってくれていたんだね」
「絃が大事だからだ」
「詩ちゃんも……」
「もちろん大事な娘であることに変わりはない」
私に抱き着いて泣いていた母の背中と、私の頭に大きな手が乗る。
「絃。これからは、詩を大切にしながら、絃として生きていってくれないか?」
「詩ちゃんを、大切に」
「心の中からいなくなるわけじゃないだろう?」
「……うん」
それから、私たち家族は瑛ちゃんの家族に謝って自宅へと戻ることにした。
「絃!」
門を出たところで、瑛ちゃんに呼び止められて振り返る。
「絃は、絃らしく生きろ」
その言葉の深さに、私の心は悲鳴をあげ、泣き止むことが出来なくなった。三人で家に帰り、リビングのソファーに腰を下ろした。
「絃ちゃん、ずっと嘘をついていてごめんね。でもね、お母さんのことを考えてくれる絃ちゃんの気持ちが、すごく嬉しかった。絃ちゃん、一年間、詩ちゃんと過ごさせてくれて、ありがとう」
母は私の身体を横から抱き締めて、また泣いているようだった。
「私こそ、変な思い込みをして、皆に心配と迷惑をかけて、ごめんなさい。私の拙い嘘に付き合ってくれて、ありがとう」
私の声も涙声で、震えている。
「絃。これから、幸せになりなさい。心の中の詩と共に」
「うん」
私は、絃。
双子の妹、詩は死んでしまったけど、仲が良すぎて、一緒になっちゃったんだと思うことにした。
私の嘘は、皆の優しい嘘で守られていた。
*終*
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