返事

作家: ぶれこみ
作家(かな):

返事

更新日: 2023/06/02 21:46
その他

本編


 夕方に外出先から帰ると、階段横のステンレスの郵便受けに手紙が混じって入っていた。このIT革命の時代に、郵便受けに来る書簡と言えば大体は手続き関係の書類かダイレクトメールである。無粋なそれらの書簡の中に、薄緑色の地に竹笹のデザインされたその洋型の封筒は、なんだかわたしのこころを和ませた。
 とりあえず、手紙類を持って自分の部屋の前まで行くと、ベージュ色の鉄扉を開けて、玄関に入った。中は、昼間に熱せられた空気で充満していて、たいそう暑かった。わたしはこの歳で独身であり、安いアパートに住んでいる。近所も学生や年金老人ばかりで、裏には私鉄の線路が走っている。また、遠くの踏切の音が鳴っていた。じき、電車が騒音とともに通り過ぎるだろう。
 靴を脱いでダイニングに上がり、とりあえず扇風機を回して椅子の方に向けると、台所からキッチンばさみを取ってきて、テーブルのまえの椅子に腰掛け、封筒の端を切り落とした。中身を出してみる。
 便箋はコピー用紙で、ワープロで細かに横書きの文字が、印刷されていた。

 ――拝啓 政府の暴政により溜まる民の憤懣で暑さがあまつさえひどくなるだろう砌……

 このようないかにも珍しい書き出しである。わたしは、なにごとかとついつい着替えも済ませずに、そのまま手紙を読み出した。
 なにやら、わたしの書いた小説の感想らしきことが書いてある様子だ。わたしは、運よくも二十代で小さな文学賞を取って、その小説が大手の文芸誌に紹介されて有名になり、若手の女流作家と言うだけで、平成の美女作家の四天王の一人とか言われて、いろいろ雑誌で対談したり、記事を書いたりしているうちに、同時に書いていた小説が、野間文学賞を取ってしまって、ますます注目を浴びた、われながら運だけの小説家であった。その実、そんなに容姿が美しいわけでもないし、小説だって一生懸命書いてはいるが、自分の才能の限界を感じていて、自分の中では素晴らしい文学というものを持ってはいるのだけれども、自分の小説はそれにはまったく及ばないと思っていた。
 そんな中で、この手紙は、わたしの最近作の感想であった。しかも、感動しました、とか書いてあって、実は僕も小説を書いていて、先生に捧げて書いた作品があるので、今度お贈りしたいとか、書いてあった。わたしは、はじめこそただのファンレターだと思っていたが、どうも違和感があるのに気づき、なんだろうととつおいつ考えていたら、これは出版社からの転送ではないということに気が付いてしまった。
 普通、わたしの住所など誰も知らない。だいたい、いくら三流作家とはいえ、こんな線路沿いの安アパートに、わたしが住んでいると知っているものは、友達と編集者だけだ。このファンは何者なのだろうか。そう思って、送り先の住所を見た。すると、都内の割合街中の住所が書いてあった。御丁寧に電話番号まで書いてある。名前を見たら、「早川肇」と書いてあった。
 そういえば、経堂美沙という親友がいて、結婚して早川美沙になっていた。その関係だろうか? 子供はもう小学生くらいになっていて、里沙だったと思うから、その子ではないことは確かだが。
 わたしは、手紙をテーブルに置き、とりあえず服を脱いだ。洗濯機の蓋を開けたら、すでに多くの衣類が詰まっていた。そろそろ回さねばならないが、今はすぐにシャワーを浴びたかった。ベッドの下のタンスから下着と部屋着を取り出すと、そのままユニットバスに入った。
 琺瑯の壁で覆われたクリーム色の小さなユニットバスの中は、一層むっとしていた。少しカランをひねって水を手に当ててみると、結構ぬるかったので、そのままシャワーに出して水浴びした。頭や肩に当てるとき、少しぞくっとしたが、体がヒートアップしていたので、気持ちよく感じた。古人が斎戒沐浴したときは、こういう気分になったのだろうか?
 風呂から出ると、一通り身体を拭いてから、居間に入ってクーラーを点けた。そして、美沙に電話してみた。
 「お久しぶり。どう? 最近、調子は?」
 「うん、元気よ、あいかわらず」
 美沙は、電話の向こうで快活に話した。わたしは、直裁的に訊いた。
 「親戚に、肇君ていないかな?」
 美沙は、クスリと笑って言った。
 「甥よ。義兄さんの長男なんだ。……読書好きで勤勉なのはいいんだけど、子供の頃からね、すけべだから女流作家の本を読みあさって、あなたにも憧れていたみたいよ」
 わたしは、少し怒っていった。
 「なんで黙ってたのよ」
 「いや、まだ高校生だしさ」
 「手紙きたよ」
 また、遠くの踏切の音が鳴った。
 「え? 肇君から?」
 「うん」
 どうやら、里沙がわたしの住所を、肇君に教えてしまったらしい。
 「かわいいね、わたしが立派な文豪とでも思っているんじゃないかな」
 わたしが、ほっとした気持ちに成ってそう言うと、美沙は、ふふと笑って付け足した。
 「幻滅させないでね」
 「そうだね、返事書かなきゃな」
 その声は、裏の線路を通る電車の騒音でかき消されてしまい、美沙に伝わったかどうかは、判らなかった。それで、わたしはもう一言付け足した。
 「そういえば、何かわたしに捧げた小説を贈るとか言ってたな」
 「肇君が? マセガキ」
 「いやいや、うれしいよ」
 美沙は、あまり調子乗らせないでね、女好きだから、と言って電話を切った。
 わたしは、ワープロで書かれた手紙だったが、美沙の甥ということもあって、すこし愛着が湧き、手書きで手紙を書くことにした。居間の窓際にある木のデスクに座る。上に乗っているノートパソコンを閉じて脇にやって、空間を作った。しかし、最近手紙というものを全く書かないため、便箋が一枚もなかった。しかし、ワープロで書く味気なさを思うと、どうしても手書きで書きたかった。それで、仕方ないから、原稿用紙に書くことにした。
 
 ――拝啓 ベランダの室外機の音がうるさくて、縁側の風鈴が恋しいような季節ですね。
 お手紙、ありがとう御座います。わたしのような、三流作家の小説に、貴重なご感想をくださって、とてもありがとう御座います。……

 わたしは、そのような文章を、楷書で書いていった。今でもたまに原稿用紙を使うことがあって、それは編集者にわたすものではないからよけい、枡ははみ出すは文字は躍るは、で判読しがたい代物になるのだが、今は人に読んでもらうものだから、神経を使って一字一字丁寧に書いた。万年筆は擦れて字が読みにくくなるので、また、訂正が利かないと疲れることもあり、フリクションを使用した。ところどころ、色を変えてカラフルにして、書いた。
 合計、十枚程度の手紙になった。感想について、わたしがその小説を書いた意図と絡めて、意見を書いた。それと、最後に小説を捧げてくれてありがとう、とても楽しみです、と書き添えた。
 書き終わると、お腹がすいているのに気づいた。壁の掛け時計を見たら、もう八時になっていた。わたしは、晩御飯をどこかに食べに行きたくなった。郵便ポストのある商店街に行けば、カレーが美味しいという評判のラーメン屋があった。そこの豚骨醤油ラーメンが大好きだった。今夜は、そこに行こうと思い、引き出しをあちこち開けて封筒を探したが、見付かったのは角形四号の茶封筒一つだけだった。これでは、さすがに気が引けたので、クローゼットや押し入れを開けて、空腹を忘れるようにひたすら探した。
 すると、百円ショップで買ってきた包装紙のあまりが出てきた。棒に巻かれて丸くなっていたが、早くしないとラーメン屋が閉まってしまう。今日中にこの小さな仕事を完遂しないと、縁起が悪い気がした。わたしの逡巡をかき消すように、ガタガタ言って電車が裏を通り過ぎた。
 わたしは、包装紙を使って原稿用紙の十枚あまりの四つ折りを、丁寧に包んだ。切手は、ポストの前の酒屋に売っているはずだ。それで、包装した原稿用紙に、下写りしないように、水性のマジックで、住所と郵便番号を書いた。赤いペンのほかは蛍光ペンしかなかったので、かなりためらったが、水色の蛍光ペンで細く書いてごまかした。
 出来た手紙を電灯に当ててみると、どうにもリボンを付けたくなった。しかし、そんなしゃれたものは持っていなくて、手紙がおかしくなってしまったついでと、ついつい悪のりして、髪留めのゴムの色つきのものの緑と赤を、それぞれ左上と右下に斜めに、糊で貼り付けた。それを見たら笑えてきて、女好きの肇君なら大丈夫かと、げらげら笑いながら、序でにまだ書いていなかった送り主を裏に、口紅を筆を使って書いた。われながら、おとなげないと思った。
 わたしは、こういうところ軽薄で一流になれない理由なのだろうと反省したが、腹が減っていたので、手紙と財布ををバッグに入れて、部屋着のままでツッカケを履いて、玄関から出た。でも、若い男の子から手紙が来て、自分も若くていたずらっぽい女の子に戻ったような気持ちがして、とても幸せだった。早く、郵便ポストに投函したかった。
 外の空気は、夜半なのに熱帯のごとく暑く、ラーメンなんか本当に食べれるのだろうかと、考えながら、ドアの鍵を閉めた。また遠くで踏切がかんこんと鳴っていた。
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