水底から

作家: ながる
作家(かな):

水底から

更新日: 2023/08/16 23:30
その他

本編


 イカヅチは震えていた。
 船に並走するように海面から飛び出し、飛翔する《《それ》》を見たが故に。
 彼は嗤う。これは武者震いだと。
 彼は吠える。その|叫び《こえ》でそれを撃ち落とさんとするように。

 遥か海原では黒雲が湧きあがり、その表面を彼の名と同じ白い稲妻が走り抜ける。

 行け行け。
 あそこまで行ってその雷《いかづち》に撃ち抜かれてしまえ。
 独りでは寂しいか。我も行こうぞ。
 行って、決着をつけるのだ。

 ぎょろりとした目玉がイカヅチを捉えた気がした。
 その巨体が波に沈み込んでいく。

 横波を受けて船が大きく揺れた。
 漁船ならともかく、盗むようにして借り受けてきたこの船ならば、この程度では沈むまい。
 足を踏ん張り、手にした銛を握り直す。
 乾いた唇をぺろりと舐めると、潮の味がした。



 海辺の小さな村の命綱とも呼べる漁獲量が激減したのは、もう三月程前だ。
 赤潮でも青潮でもない。漁師たちは一様に首を捻った。
 そのうちに漁場から戻らぬ船が増えた。
 海神《わだつみ》の怒りかと震える仲間たちの横で、イカヅチは笑っていた。
 つつましく暮らす我らの何が神の怒りに触れるのかと。

 或る日、虫の息で浜に打ち上げられた仲間は片腕と片足が無く、体中に丸い噛み痕のようなものが付いていた。
 化物。そう彼は言い残し息を引き取った。

 化物ならば退治すればいい。
 イカヅチ達は武器を持ち漁場に赴いた。

 化物は、化物だった。

 彼らの漁船はその長い腕に絡め取られ、木の葉のように簡単に水面に沈んだ。
 我らは狩る側ではなく、狩られる側になったのだと、皆は気付かされた。

 男衆がいなくなれば村はどうやって食っていくのだ。三々五々散らばってはもう村としてやっていけない。
 命からがら舞い戻ったイカヅチは、同じように戻ったカブラギに、一番大きな船を借りるぞと、それだけ告げた。



 ようよう獲れた一網分の魚を囮に、イカヅチは船を走らせた。
 舵はカブラギに任せてある。
 目を凝らし、船尾で海中の網を見守った。

 ぬるりと白い蛇の様なものがそれを抱え込んだ時、イカヅチは迷うことなく銛を叩き込んだ。
 白い蛇は大きく暴れ、海が泡立った。
 船が速度を増し、怒りのままに それ は船を追ってきた。
 並走し、飛翔する。その体躯を見せつけるかのように。

 一度海に潜った巨体は船の下を潜り抜け、反対側に取り付こうと脚を伸ばした。
 イカヅチはそれを腰帯に挟み込んでいた大鉈で切りつける。
 一瞬怯んで縮こまりはするものの、すぐに別の脚が伸びてきた。
 縁《へり》を掴もうとする足先を、伸びてくる度その鉈で一心不乱に叩きつける。
 いくつかの足先は切れて船床に転がり、まだその身をくねらせていた。

 イカヅチが届かぬ場所に脚を掛け、化物はその巨体を持ち上げた。
 イライラとするように、その体躯の表面は次々と色を変えている。白、茶、赤茶。ぬらりと濡れた銀色にも虹色にも見えて、化物を化物然とさせていた。
 その重さに船が傾ぐ。あちこちで船体がギシギシと悲鳴を上げていた。
 すかさずイカヅチはその坂になった床を滑るように駆け降り、ぎょろりとした目玉に銛を投げつける。

 咆哮、ではない。音など無かった。
 しかしイカヅチにはそれが咆哮に聞こえた。

 ザマアミロ。せせら笑う。

 化物は忌々しげに、粘つく生臭い墨を吐きかけて、一度船から離れていった。
 船から離れた化物は、長い二本の腕を伸ばしイカヅチを狙う。
 ぐらりぐらりと揺れる船の上、二方向から来る鞭のような攻撃に防御も覚束ない。
 波と墨で濡れた床に足を取られ、ぐらりと傾いたイカヅチを、その腕は逃さずぐるぐると巻きつけた。
 鋸のような歯のある吸盤は容赦なく彼の肌を噛み千切った。

 ――イカヅチ!!

 イカヅチが宙に浮きかけたその時、カブラギの声が聞こえ、ブン、と空を切る音がした。
 ぶちぶちと繊維の切れる音の後にダンっと何かが床を打つ。
 カブラギの|鉞《まさかり》だった。
 べりべりと化物の腕が剥がされていく。

 先を失った長い腕は大きく空を駆け、波打つようにうねっている。

 まだだ。まだやれる。
 せめて、此奴をあの漁場から離し、何処か遠いところまで連れて往かねば。

 巨体は今一度海に潜っていく。

 次は何処だ。
 前か。後ろか。

 血と墨でその衣を染め上げて、イカヅチは目を皿のようにして待つ。次の一撃を。

 進む船は徐々に高くなる波を一山、二山と越えていく。
 ぽつりと、イカヅチの頬を波飛沫ではない水の粒が濡らした。
 イカヅチを叩く水の粒はすぐに十《とお》にも二十にも増え、その視界をも遮るようになる。
 小さな舌打ちを聞きつけたかのように、白い鞭が飛んできた。
 船が落下するように波を下り、沈み込んだ身体は辛うじてその鞭を避ける。反射的に薙いだ鉈は、しかし空を切るのみだった。

 荒れてきた海に、化物もイカヅチも翻弄される。
 執念で船尾にとりついた化物の片目がイカヅチを誘った。
 愛しいものを見つめる様に、来《こ》、と。

 イカヅチは笑う。愛しいものに微笑みかける様に。その眼光は鋭いまま。

 ――カブラギ! 行け! その鉞《まさかり》を置いて!

 何を言うのだと、操舵室から彼は振り返った。
 イカヅチは銛を投げ、化物を牽制してから彼を振り返りニッと笑った。

 ――この先に行けば船はもたん。お前は村に帰れ! さあ、鉞を寄越せ!

 カブラギは憤慨する。お前はどうするのだ。船が無ければ、海に沈むだけではないか!
 しかし、その声はイカヅチには届かぬようだ。

 ――お前の子に兄妹をたんとつくれ。村に人を増やせ。独り者《もん》の我とは違う、其《そ》がお前の仕事ぞ! なぁに、心配してくれるというなら、彼奴《きゃつ》が動かなくなった頃に迎えに来ればいい。我は彼奴を喰らいながら、のんびり帰る算段よ!

 雨の音に波の音、時折腹にまで響く低音の雷の音。
 カブラギの声がイカヅチに届かぬように、イカヅチの声もカブラギに届かぬはずだった。
 だが、その言葉はひとつも漏らさずカブラギに伝わった。
 その、心意気も。
 カブラギはギリ、と奥歯を噛みしめ鉞をイカヅチの足元に投げつける。

 ――掴まれ!!

 イカヅチが身を低くして床に刺さった鉞の柄を握るのを見届けると、カブラギは船を急旋回させた。
 足先を幾つか失った化物はむしゃぶりつくように船尾を抱いていたが、イカヅチが低い体勢から銛を投げつけると脚の半分を離してそれを避けた。
 大漁旗のような、巨大な干物のようなそれを薄く笑いながら、イカヅチは握っている鉞の柄と己が手を手拭いでぐるぐると括りつける。
 船の体勢が戻ったところで、床から鉞をもぎ取り、もう片手に銛を持って彼は化物に文字通り飛びかかった。

 己に向かってくるイカヅチを、歓迎するようにその体色を変え、化物は全ての腕《かいな》を彼に向ける。
 船が遠ざかっていくのを背中で感じながら、イカヅチは高らかに笑った。
 彼がその腕に完全に抱き留められる前に、彼は鉞をその色を変える胴に振り下ろした。
 腕の――脚の何本かが痛みに暴れる。
 しかし、イカヅチを掴んだそれは決して彼を放そうとはしなかった。
 イカヅチの身体をその口に運ぼうとする力は鉞と括られた手拭いに阻まれていた。だが、そう長くはもたないだろう。
 引き千切られるような痛みと、鋸の歯で抉られる肌の痛み。
 それでも彼は嗤う。

 ――そげに抱いてくれるな。我は呼ぶぞ。我が名と同じものを。

 イカヅチは囁いて、高々と銛を掲げる。
 我はここぞ、と。信じて疑わず、己の名が表すモノを。



 カブラギは振り返らずにいられなかった。
 まだ、これ程ならば助けに行ける。
 イカヅチが一撃であやつを屠ったならば、すぐに引き返してその身を。
 彼等を置いてきた辺りに目を凝らすと、細く白い光がジグザグと空を割った。
 ほんの、一瞬の出来事。
 それは海面まで|疾走《はし》るとその軌跡が爆ぜた。

 まさか。
 彼は相棒の名を呟く。呼んだのか。まさか。

 呆然と海を見つめるカブラギに、また強くなった雨が容赦なく降り注ぐ。
 波で上下に揺られ、雨に遮られ、カブラギにはもう何も見えない。

 しばし寄る辺ない木の葉のように波に揺られていた船は、やがてあるべき場所へと舳先を向けた。
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