遠い日の記憶

作家: ミクタギ
作家(かな):

遠い日の記憶

更新日: 2023/06/02 21:46
その他

本編


この歳まで誰かを信じたことなどない。

出会いは、やがて来る別れの序章に

過ぎないと思っていた。

人に深入りせず上澄みだけを掬う人生は、

ある意味潔いとさえ感じていた。

そんな私が人間に目を向けた切欠は、

母が残した壮絶な日記。

不本意な私との別離を知ってから。



【底なし沼】

母の面影は一切ない。

私が幼い時にある日突然、

姿を消したらしい。

その日を境に父は私の周りから

母の痕跡を消し去った。

最初から存在しなかったように。

そして私と父の地獄のような

生活が始まった。
 
小学校に入り初めて

幼稚園の存在を知った。

” どこの幼稚園だったの? ” 

最初は何の事かと思った。

普通みんなは行くらしい。

歌を歌ったりお遊戯をしたり、

集団生活に慣れるための

練習のようなもの。

しかし私はその頃、

父の繰り返す暴力から

自分の身を守るのが精一杯。

誰も助けてくれる人はいない。

日々有り付く食事を如何に確保するか?

それが私にとっての学習であった。

社会という地獄絵図の中を

幼子がどう生き抜くか?

6歳にして既にその瞳は澱み切っていた。
 
それでもよく小学校に

通わせてくれたと思ったが、

それも父の狡猾な手口だった。

虐待の通報を避けるため、

必要最低限のことはする。

いざとなれば泣き落としも辞さない。

もう逃げ場はないと思っていた。

底なし沼に引き込まれるように。

全て、何もかも諦めて

私は12歳になっていた。

私の人生を変えた忘れられぬ、

あの時が訪れる。



【彼方に見えた光】

その日も、父は朝から呑んでいた。

目は血走り、呂律も回っていない。

恐ろしく不機嫌であり

訳の分からない

罵詈雑言を繰り返していた。

私は逃げるように学校へ向かう、

はずだった。

焦りでつい転び、

父の酒を溢してしまったのだ。

怒りが臨界点に達した父の目は

人間の物ではなかった。

獲物に襲い掛かる野獣のように

私へ向かってきた。

そしてその首を力の限りで締め上げる。

恐怖は通り越し、酸欠も重なってか

私の意識は少しずつ失われていった。



“ ……気が付いたかい? ”

目を開けると見知らぬ男がいた。

父よりもかなり年上に見えた。

“ 怖かったろう。もう大丈夫だよ。”

一瞬なんの事かと思ったが

それを追い掛けるように

恐怖の瞬間が甦ってきた。

猛烈な悪寒。ガタガタと歯が鳴る。

“ 落ち着きなさい。もう心配はいらない。

君は助かったんだ。”

その男は私の手を握り、そう言った。

そして私は再び眠りに落ちていった。



【解き放たれた呪縛】

あの後、父は逮捕され、

私は施設に引き取られた。

病室にいた男性は近所の民生委員。

以前から父はマークされ

定期的に付近をパトロール

してくれていたようだ。

あの朝、獣のような雄叫びを聞き

ただ事ではないと

警察を呼んでくれたのだ。

私は12才にして天涯孤独になり

施設へと送られた。

しかし、あの地獄の日々を思えば

全てが幸せだった。

中学、高校、そして奨学金で大学まで。

悪夢のような父の呪縛から

ようやく解き放たれたと思っていた。



超難関の国立大学を卒業し

私はいわゆる一流企業に勤める。

仕事は楽しく、懸命に励んだ。

お陰で同期の誰よりも出世は早く

五十の声を聞く前に

取締役にも選任された。

だが人間関係は乏しく

日々の挨拶と本当に軽い世間話のみ。

結婚もせず、友人の一人もいない生活を

数十年続けてきた。

それで良いと思っていた。

どこかの誰かと不本意な

生活をするくらいなら

一人でいた方がよい。

またあの悪夢のような生活が

もう二度とやってくるはずもないのに

私の身近にその気配を漂わせる。

このまま一生、

父の亡霊に悩まされるのか?

諦めかけた時、

彼が亡くなったとの一報が

突然、本当に突然舞い込んできた。



【母の痕跡】

父は、10年服役した後

精神病院でその余生を過ごした。

幼少の頃、彼と過ごしたあばら家は

長い間、

家人を待ち続けて朽ちていった。

それでも遺品などを整理するため

親族に立ち会って欲しいと

自治会の人から頼まれ

気が進まないながらもここにやってきた。

40年の時が流れていた。



家の中はあの頃とほとんど変わらなかった。

一年中置かれていた炬燵。

ほとんど使われることのなかった食器類

乱雑に置かれた衣類や生活用品。

それらを眺めながら

父の使っていた机に気付く。

仕事もろくにしていなかった彼には

酷く不釣り合いに見えたが

少し気になったので引き出しを開けてみた。

いつのものか分からない書類や

文房具に混じって一冊のノートを発見した。

端の方は折れ曲がり、とにかく古い。

表紙には何も書かれていない。

最初のページを捲る。

日付の後に何やら

ボールペンで記されている。

どうやら日記のようだ。



【母の日記】

《 1965年 3月16日》

今日、このあばら家に越してきた。

仕方なくではあるけど。

あのボロアパートにも

長く住んだがもう限界だった。

毎日あの男が繰り返す暴力。

食器の割れる音や怒鳴り声。

隣近所はよく我慢してくれたな。

働かない彼の目を盗んでは

私に声を掛けてくれる。

食事やお金の面倒も随分みてくれた。

しかしそんな生活も終わりを迎えた。

あの男がタバコの不始末で

火災を起こしたのだ。

幸いボヤで済んだが、

住み続ける訳にはいかなかった。

そして隣人関係を疎ましく思った彼は

こんなあばら家に越してきた。

一軒家。もう誰も助けてくれない。



《1965年 5月20日》

ここに来てどのくらいかな?

あの男は外出しなくなった。

その代わり酒量が格段に増えた。

仕事も全くしない。

だから私が働かなければならない。

それなのに時折、

動けなくなるまで殴り付ける。

回復するまで休み、また仕事への繰り返し。

顔を殴らないのは証拠を残さないため。

5年間耐え続けたがもう限界だ。

何故今まで逃げなかったのか?

自分でも分からない。

逃げよう!



《1965年 8月22日》

何てことに! 生理がこない。

それだけは避けなければと

気をつけていたのに。

ああ!どうしたら。

明日、病院に行ってみよう。

どうか、間違いでありますように。



《1965年 8月23日》

妊娠していた。

“ おめでとうございます ” と言われた。

堕胎すると決めていたのに、

そう言えなかった。

あんな男の子供など産めるはずがないと。

そう思っていたのに、言えなかった。

お腹に宿った新しい命があの男と

繋がっているとは

どうしても思えなかった。

何とかこの子を守れないものか?



《1965年 9月2日》

迷った挙げ句、

今日あの男に妊娠を伝えた。

予想外だった。喜んでいた。

子供のために全てやり直すと。

酒も止め、仕事も探すと。

本当なのか?

でも今まで見たこともない嬉しそうな顔。

信じてもいいかな?



《1965年 11月8日》

あれから2ヶ月。

彼は別人のようになった。

毎日仕事に向かい、酒も止めた。

信じられない。

この子が幸せを連れてきてくれた。

毎日が幸せだ。彼も幸せそうだ。

ありがとね。早く産まれてお顔を見せて!



《1966年 4月19日》

産まれた。男の子。

今日やっと家に帰ってきた。

1週間経つが元気だ。

母乳も良く飲む。

大きく元気に育って欲しい!

ただそれだけを願っている。

あの人が帰ってきた。

今日は何を買ってくるのだろう?



《1966年 7月29日》

この子は元気に育っている。

“ 賢也 ” と名付けただけあって賢い。

私の語りかける言葉が分かるらしい。

それに合わせて笑ったり泣いたりする。

親バカかな? 笑



《1967年4月2日》

随分久しぶりの日記になった。

賢也もまもなく一歳を迎える。

思えば去年の今頃は幸せだった。

人間の本質とは、

やはり変わらないのだろうか?

あの男も賢也が産まれて暫くは

真面目に働いていた。

しかし徐々に会社を休みがちになり

1年経った今では元の木阿弥。

酒浸りの日々。私にも時折、手を上げる。

幸い、賢也には優しい。

また働きに出なければならない。

賢也をどうしたら?



《1967年5月15日》

勤め先が決まった。

やはり水商売しかなかった。

小さなスナックだが、

ママのお母さんが

賢也の世話をしてくれる。

あの男に預けるよりは、ましだろう。

夜の8時から深夜1時まで。

何とか頑張ろう。この子のために。



《1968年5月12日》

また暫く振りの日記。

この1年、何とか頑張ってきた。

週4回、スナックで働きながら

賢也の世話をして、働かないあの男に

暴言や暴力を受ける日々。

最近はお客さんとの関係を疑っている。

どこにそんな暇があるのか?

賢也も2歳を過ぎた。

物心がつく前に環境を何とかしたい。

でもどうすれば…。



《1969年2月15日》

あの男に見られてしまった。

お客さんを見送る際に

不意を突かれキスされたところを。

たぶん時折やってきて

様子を見ていたのだろう。

家に帰ってから散々殴られた。

何度も説明したが聞くはずもない。

もう疲れた。賢也だけが支えだ。



《1969年4月6日》

あの日から毎日のように

あの男から暴力を受け続けている。

最近は賢也にも暴言を吐くようになった。

守らなければ。賢也だけは何としても。

でも私自身、どうなるか分からない。

もう限界です。

誰か助けて!



この日で日記は終わっている。

この後、どうなったのか?

母は必死で私を守ろうと

してくれていたように思う。

何故、私と離れることになったのか?



「賢也君。今後についてお話しましょう。」

自治会長がやってきた。

『会長。お世話をお掛けしました。』

『ところで先程、母の日記を見つけました。』

『母について、何かご存知では?』

私が尋ねると、少し表情を曇らせ

「どこまでご覧になったのかな?」

私は日記の内容を説明した。

自治会長は、暫く考えてから

ゆっくり、ゆっくり語り始めた。



【葬られた真実】

「その後なんだ。悲しい出来事が起こったのは。」

自治会長は、一言一言噛み締めるように言った。

「お父さんの暴力は、その後もエスカレートして賢也君、君にも及ぶようになった。」

「お母さんは、それだけは何とか阻止しようと懸命に訴えた。」

「しかしお父さんは一切耳を貸さず、むしろお母さんを浮気者と罵り、殴り続けた。」

「そんな矢先、あの事件が起こった。お母さんはもう限界を越えていたんだよ。」

私はどうしてもその先が聞きたくて

自治会長の方へ身を乗り出した。

それを察した彼は、観念したように続けた。

「お父さんを、…包丁で刺してしまったんだ。」

『えっ?』

全く予想もしない答えに呆然とした。

「幸い軽症で、それほどの騒ぎにはならなかった。しかし… 。」

「既にその時、お母さんの精神は壊れてしまっていたのだよ。」



それから母は、警察の取り調べを受け

直ぐに精神病院へ送られた。

母も父と同じく精神を…。

その後は母の遠縁にあたる人が

世話をしているらしい。

父が私に話していた内容とは全く逆の

余りにも壮絶過ぎる母の人生だった。

私の心に人生で初めて

うっすらと灯火が点された気がした。



【母の消息】

母の病院は意外にも近くだった。

実家のある田舎町ではなく

私の住んでいるこの街に。

あれから自治会長に頼み込んで

母の病院を教えてもらった。

会わない方がいいかもしれないと

何度も忠告されたが、私の中で

母の存在がどんどん大きくなる。

その気持ちを抑えることは出来なかった。

駅裏のやや寂れたその建物は

私と母の想いを代弁しているようだった。

受付で母の名前を告げ、息子だと伝える。

電話で何度かやり取りをして

3階に向かうように促された。

混んでいるエレベーターを待ちきれず

私は階段で先を急いだ。

3階詰所で母の名前を尋ねると

年輩の女性看護師が案内してくれた。

この階の入院患者は

比較的症状は落ち着いていると言う。

廊下の突き当たりに窓があり

西日というには力強い陽が射し込んでいる。

その手前にある部屋へ案内された。

個室の扉を開けて、

“ 息子さんがいらっしゃいましたよ。”

と声を掛け、私を促し彼女は去っていった。

その後、やや躊躇しながら部屋へ入る。

10畳ほどのスペースの

窓側に置いてあるセミダブルのベッドに

一人の老女が起き上がっていた。

微笑を浮かべながら

こちらに顔を向け軽く会釈をした。

胸に込み上げるものを感じながら

私はその女性をみつめた。



【遅すぎた再会】

この人が私の母親?

展開が急過ぎて実感が湧かない。

だが頭の中は走馬灯のように

幼少期の様々な記憶が駆け巡る。

『賢也です。』

やっとのことで絞り出した。

万感の想いで母を見つめる。

しばらくの沈黙が続いた。

そして相変わらずの微笑を保ったまま

しかし私に焦点は合わせず

思いの外、はっきりとした口調で

「初めまして。」と呟いた。



最初に案内してくれた看護師に

母の件を尋ねてみた。

通常の生活では記憶障害の傾向はないと言う。

もしかしたら断片的な消失があるかもしれない。

先生に伝えると言ってくれた。

あの後、幼い頃に離れた

母を探していると会話を切り出した。

そうせざるを得なくて。

“ それは可哀想に。” と他人事のように

その老女は答えた。

余りにも悲し過ぎる親子の再会となった。



【遠い日の記憶】

私は暫く母の元へ通い続けることにした。

本当に私を覚えていないのか?

それともフリをしているのか?

だとすれば何故?

様々な疑問は残ったが何度か

話をすれば状況が変わるかもしれない。

そんな期待も込めての判断だ。



今日で4度目の訪問となる。

私の現状については一通り話した。

そろそろ母のことを聞いてみよう。

『また来てしまいました。』

「あら!お母様は見つかった?」

それには答えず、

『この病院には、もう長いこと?』

今度は彼女が黙った。

『ご家族は?』

「・・・・。」

やはり記憶は残っているのでは?

そして思い切って父のことを伝えた。

『私の父は、先日亡くなりました。』

彼女から目を離さず観察したが

ほとんど反応はなかった。

僅かにため息をついたかもしれない。

「それは残念でしたね。」

声にも動揺は見られなかった。

それでも私は続けた。

『どうしようもない父でした。』

『仕事もせず酒浸り。』

『小さい時から殴られ続け。』

『12歳で殺されかけました。』

いつもの微笑を湛えたままだ。

しかし何も答えない。

一切の感情を

忘れてしまったかのように。

やはり私と父の記憶だけ

抜け落ちているのか?

諦めかけたが最後の切り札に賭けた。

一つ深呼吸をしてから

『実家で遺品整理をしました。』

表情は変わらない。

『父の机に日記が残されていました。』

微笑は変わらず。

『その日記には…。』

母の日記を順を追って伝える。

あの壮絶な内容を聞いても

彼女は最後まで表情を崩さなかった。

もう手札は残っていない。

ここまでか。

せっかく再会した母と。

いやこれで再会したと言えるのか?

ようやく人並みの感情を

取り戻したかもしれない私の心は

再び急降下していく。

少し期待し過ぎたのかな?

最初からいないものと思って生きてきた。

振り出しに戻るだけだ。

『帰ります。貴女もお元気で。』

そう言って立ち上がり

病室のドアに手を掛けた時、

「…カラスは山に…。♪」

微かに聞こえる歌声は母の方からだった。

「…七つの子があるからよ。♪」

「かわい、かわいとカラスは鳴くの。♪」

私の瞳から突然、涙が溢れてくる。

懐かしさ。温かさ。

心が温もってくる。

遠い、遠い昔、

母の背中で聞いた優しい歌声。

「やまの、ふるすへいってみてごらん。♪

まあるいめをしたいいこだよ。♪」

「カラス、なぜなくの? ♪」

何度も繰り返す母。

私は母を振り返える。

相変わらずの微笑を湛え

しかしその瞳からは涙が溢れていた。

さっきまでとは違い

本当に小さくなってしまった母を

私は力の限り抱き締める。

半世紀の時を越えて引き離された二人。

それぞれが歩いてきた壮絶な日々を

熱い涙が全て洗い流す。

まだやり直せるだろうか?

それは分からない。

今はこの瞬間を感じていたい。

一生味わえないと思っていた母の温もりを。




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