アニバーサリー

アニバーサリー

更新日: 2023/06/02 21:46
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本編


女は記念日好きだ、とよく言うけれど、それは若い頃に限った話だ。
誕生日やクリスマス、バレンタインなどのイベントだけでは事足りず、初めて出逢った日とか、付き合い始めた日とか、事あるごとに記念日を作りたがり、祝いたいと言うらしい。
この間、息子がぼやいていた。
それもまあ、今だけだと教えてやりたい。
結婚して10年、20年と経てば、記念日なんて思い出しもしないのが現実ってもんだ。キミの母を見ればわかるだろう?

そういえば、妻は若い頃からそんなことを言ったことがなかったな、とふと思った。
彼女は細かいことは気にしない、大雑把な…いや、おおらかな性格だ。昔から。
だからたぶん、今日が何の日か覚えてはいないのだろう。食事に誘ったらきょとんとした顔をしていた。
それはそれで助かるけれど。
もし今日が、23回目の結婚記念日だと覚えていたなら、約束の時間に遅れるなんてことを許してはくれないだろう。
妻を待たせている店へ向かいながら、そんなことを考えていた。

ずっと昔、僕は妻とひとつの約束を交わした。
「毎年、結婚記念日にはデートをしよう。あの日のように、手を繋いで歩こう。何年経っても、子どもが生まれても、互いに歳をとっても。結婚記念日だけは、恋人に戻ろう」
なにを血迷ったことを口走っているんだと、過去の自分を責める。
今なら絶対に言わない。いや、言う勇気などない。若気の至りとは恐ろしいものだ。
けれど、これは二人にとって大切な約束だった。だから、照れくさくてもちゃんと守っていた。
それがいつの間にか有耶無耶になっていったのは、間違いなく僕のせいだ。

結婚して最初の数年は、記念日には有給を取った。
遠出をするとか、贅沢をするとか、そういう過ごし方はしなかったけれど、ただ手を繋いで、妻といろいろな場所を歩いた。それだけだ。
けれど、彼女はいつもとてもうれしそうに笑っていた。
やがて、年齢的に任される仕事が増え、その面白さもわかってきた頃、僕は記念日の約束より仕事を優先するようになった。
休みを取らない僕に、彼女は文句も愚痴も言わなかった。
そんな妻に甘えて、僕は記念日の約束を反故にし続けた。
だから妻はきっと、記念日を忘れることにしたのだろう。いや、諦めたのかもしれない。守られることのない記念日の約束を。

待ち合わせの時間から40分も遅れて店に到着すれば、すでに妻はひとりで飲んでいた。
怒っているだろうと、恐る恐る近づいてみれば、意外なことに上機嫌らしい。
おおらかな割に時間にだけはうるさい彼女なのに、めずらしい。だからつい、ごめんと謝るより先に、別の言葉がこぼれ出た。
「なにひとりでニヤニヤしてるんだ?」
隣のスツールに滑りこみ、お決まりのジントニックをオーダーする。
チラリと彼女を伺えば、グラスに残った青色をちょうど飲み干したところだ。

あぁ、そうか。妻は今日が何の日か知っているのだ。けれど、知らないふりをしている。
僕が言い出すのを待っているのかもしれない。だから…
「それと、コルコバードもね」
と追加する。あの日の空の色を、僕も覚えているよ、と妻に伝わるように。

「待たせて、悪かったな」
そう言ってから、さて、この後はどう切り出せばいいのかと悩む。
妻を待たせたのは40分なんかじゃない。もっともっと長い時間だ。
だから、待たせ続けたことへの「ごめん」と、黙って待っていてくれたことへの「ありがとう」の思いを、小さな箱の中で輝く青色に込めた。
僕のポケットの中で、今か今かと出番を待っている。
年甲斐もなく、ドキドキと早まっていく胸の鼓動を、もうひとりの自分が笑っていた。

でもまあ、急ぐことはない。まだ夜は始まったばかりだ。
店を出て、久しぶりに記念日の約束を果たす時に、小春日和の空のように澄んだ青色が、彼女の指で輝いていれば、それでいい。
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