あの日は、五月晴れ

あの日は、五月晴れ

更新日: 2023/06/02 21:46
恋愛

本編


控えめなスイングを響かせるスタンダード・ジャズをつまみに、私はひとり、バーのカウンターで飲んでいた。
細めのスツールに腰かけ、指先で軽く頬杖をつき、こんな風に過ごすのはいったい何年ぶりだろうと考えてみる。
けれど、その記憶はあまりにも遠すぎるようで、なかなか私は想い出のシーンを頭に描くことはできなかった。

ひと昔前なら、女性がひとり、ぽつんとバーカウンターにいるだけで、ナンパを待っている軽い女だと、意地の悪い視線に晒されていたことだろう。
それが、最近は違うらしい。おひとり様、なんて便利な言葉が周囲の悪意から守ってくれる。
おそらく今夜の私も、周囲からはおひとり様、とやらに見えているのだろう。
スッと目の前に差し出されたカクテルグラスの中で、キレイな青色が揺れる。
ブラジルのリオデジャネイロにある丘の名前が付いたカクテルは、その地の空の色を思わせるのか、それとも、海の色に似ているのかはわからない。
けれど、澄み渡るような青色は、先ほどは上手くたどりつけなかった私の頭の中の想い出に、鮮やかにアクセスしたようだった。

「気持ちよさそうだね」

そう言って笑いかけた人。
行儀悪く、キャンパスの一角にある芝生に寝転んでいた私を「はしたない」と咎めることもせず、その人はスルリと自然に、私の隣を陣取った。
初対面なのに、あんまり人懐こい笑顔を向けるから、釣られて私まで笑ってしまったっけ。
私の真似をしてごろりと寝転がり、同じ空を見上げて、その人が言う。

「今日は、小春日和だね」

たったそれだけのことだった。運命的なときめきなどない。
名前も知らないその人と、ぽつりぽつりと、とりとめのない話をしたけれど、ただそれだけ。
なんとなく、その人のまとう空気を心地いいと感じてはいた。けれど、ただそれだけのこと。
何も特別なことじゃないと、あの日の私は思っていた。

けれど、気がつけば、私の視線はその人を追いかけるようになっていた。
その姿がちらりとかすめるだけで、中学生のようにドキドキした。すれ違いざまにほんの軽く挨拶を交わすだけで、ギュッと掴まれたように胸が疼いた。
あの日から私は、頭の天辺からつま先まで、恥ずかしいほど恋に染め上げられていった。

初めてのデートは一年後。
やはり、よく晴れた気持ちのいい秋の日で、映画館にこもるのはもったいないからと、予定を変更して、ふたりで手を繋いで歩いた。目的もゴールもない散歩。
それでもすごく楽しくて、なぜだかとても幸せで、小春日和に誘われて私たちは、飽きもせず歩き続けた。

初めて出逢った時に寝転んで見上げた空の色を、初デートで歩き続けたふたりの頭上に広がっていた空の色を、目の前のカクテルが思い出させる。
「あれから…25年、かぁ」
忘れかけていた遠い日の記憶がよみがえり、私はそっと、想い出の中のその人へ、やさしく微笑みかけた。

「なにひとりでニヤニヤしてるんだ?」

ふいに、聞きなれた声が私を現実に引き戻す。いつの間に来ていたのか、ちょうど夫が隣のスツールに腰をかけるところだった。
外で食事をしようなんて、珍しく誘いをかけてきた夫。それなのに大幅に遅刻するなんて、愛が足りないと思う。
もっとも、愛とか恋とか、そんな話をする季節は、ふたりともとっくに過ぎ去っている。
最近は、おなかのあたりに中年太りの兆しがはっきりくっきりと見える夫に、少しがっかりしている私がいた。

「あ~ぁ、もうちょっと、想い出に浸っていたかったのにな」
一瞬で遠ざかっていった想い出の中の彼を惜しみつつ、夫が陣取った左側とは逆の方向へ、小さく愚痴をこぼす。
幸い夫には届かなかったらしいため息ととともに、私はグラスにわずかに残った青色を飲み干した。
夫は、お決まりのジントニックを注文した後、空になった私のグラスにチラッと目をやり、慣れた調子で
「それと、コルコバードもね」
と付け加えた。
再び、清々しい青色のカクテルが目の前を染め、私は思わず笑顔になる。ほのかに香るハーブが私の心を浮き立たせた。

「待たせて、悪かったな」

ジントニックのグラスをコツン、と私のカクテルグラスに当てて夫が笑う。
その顔は、25年前と少しも変わっていなかった。
想い出の中と同じ、人懐こい微笑みを浮かべ、やさしい瞳が私をじっと見つめていた。
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