雨が降り そして、止んだら

作家: 青戸 天
作家(かな):

雨が降り そして、止んだら

更新日: 2023/06/02 21:46
現代ファンタジー

本編


もうそろそろだろうか。

深水は、薄暗くなった街の中で目についたコインランドリーに入った。
最近は、街のあちこちにこぎれいなコインランドリーが増えたが、こうして終わりを待つスペースがあってちょうどいい。
動いているのは一台だけで、人も居ない。

「もうすぐ雨が降るのにそんなに暗くならないんだな」

空を見上げると、一面、雲に覆われているが、存外雲の色は黒くない。
カップの自販機から適当にドリンクを買って洒落たソファに腰を下ろした。

ポケットに入れていた携帯の振動に気付いて、応答ボタンに触れる。

『よ。そろそろだね』

声を聞くまでもなく、表示されていた名前をみて相手はわかっている。
長い付き合いだけでなく、彼は深水の兄貴分のような存在だ。

「ヴァン。わざわざ連絡を寄越さなくてもすぐだろ?……しょうがない人だなぁ」
『そういうなって。そっちは昼間なんだっけ』

時差を考えると、向こうは夜のはずだ。

「そっちは夜だよね」
『そう。でも、僕たちに時差は関係ないからね』

そうだ。

夜だろうと、昼だろうと自分たちには関係ない。
自分たちには自分たちにしかわからない感覚があるからだ。

人として生まれて、何の変哲もない普通の人だと思っていた自分がある日突然変化する。
影ができない人間。

彼らは、光を特殊な屈折で受け流してしまう。故に影ができない。

その原因は、特定のウィルスだ。適合したものだけが発症し、正常な細胞が似て非なる細胞に置き換わっていく。
人として正常な細胞と全く同じ機能を持ちながら、さらに新しい機能を持つ細胞であるために、人であって人ではないもの。

それな彼らは自分たちのことをヴィオーラと呼ぶ。

『お前が一人でいるから気になったんだよ。悪い?』
「僕が変化したてならまだしも……」

電話越しにも深水の苦笑いは伝わったらしい。向こう側では少し拗ねたような声がする。

「それはもう、余計なお世話だよ。あと、変わってるのは君の方だからね、ヴァン。男女構わず周りに人が多い」
『そりゃ、楽しい方がいいからに決まってるだろう?いつも一人でいるお前の方が驚くよ』

変化したてなら。

というのも、深水の変化直後に現れたのがヴァンだった。

彼らには、同胞を知覚することができる。
新しい同胞が生まれれば誰かが必ず傍について、生まれたての彼らを導くのだ。自覚なく、人ではないものに生まれ変わったことが不用意に知られ、トラブルに巻き込まれることがないように。

そうしてお互いに守ってきたからこそ、危険な目にあう事もなく彼らは人々に紛れて過ごしていられるのだ。

ただ、ヴァンの様に常にヴィオーラではない、親しい友人や女性たちに囲まれているのは違う気がする。

「僕にだってそれなりに知り合いはいるよ?」
『それなりだなんて、よくいうなぁ。深水は、僕よりもロマンチストなのに、人と関わらないなんて気が知れないよ。僕はもうすでに寂しくて仕方がないけどなぁ』
「……もう決まったことだし、僕はいっそ気が楽だよ」

話しながら適当に買ったドリンクを口にすると、驚くほど顔を顰める味だ。

「……ん」
『なに?』
「いや、適当に買ったドリンクがまずい」
『なにやってんの』

小さく笑われた後、じゃあまた後で、と声をかけて切った。

ガラスの向こうはいつも通りの光景で、人通りも変わらない。
普段は何の感慨も持たないが、さすがに今だけは違う。

「……」

指でフォーカスを作って、眺めて。

長い記憶の中でも、少しでも残るように、記憶のシャッターを切る。
通りすがりの会社員らしき男性に訝し気に見られて、手を下ろした。

ガラス越しの景色を眺めていると、ぱらぱらと雨が降り出したようにみえる。

「あ。降ってきた……」

空を見上げる人。
傘を取り出す人。

手や鞄で頭を庇うように急ぎ足になる人を見ていれば、すぐにわかる。

雨が嫌いな人も多いだろうが、深水自身は、嫌いではない。むしろ、人の目につかないなら傘なんてなくてもいいくらいだ。

足元を気にしながら歩いていく人たちをガラス越しに眺めながら、だんだん変わっていく地面の色に目が離せなくなる。

乾いた地面に、雨粒が落ちていく様は、塗りつぶされるまで見続けてしまう。
じきにすべて覆い尽くされていくまでを。

「誰も思わなかっただろうな……」

環境の変化。
生物の変化。

長い時間をかけて、人々は変わり続けてきた。

「まあ、僕も思ってなかったけど……」

深水のように、変化しきってしまえば見た目は変化しなくなる。変化しなくなると共に、病にかかることがなくなるため、事故や怪我を負わなければ恐ろしく長寿になる。

同じ環境に暮らしていて、見た目も老けることなく長生きするとなれば、どうしても人ではないことが知られてしまう。

深水は、まだヴィオーラの中では生まれたてといってもおかしくないくらい若くて、ほぼ見た目と変わらない年齢だが、そうではない者たちの方が多いからこそこうして雨が降る。
雨が降って、ただの人が眠りについている間に、人々の記憶から彼らは消えていく。

こうなってから深水は初めてだが、自分自身も気づかない間に雨が降っていたのかもしれない。そう思うと、寂しいような不思議な感覚だ。

時間がたつにつれて、少しずつ本降りになってきたようだが、降り出した時よりも空は明るい。
静かだった、コインランドリーの中に雨を避けて駆け込んできた人影に顔を向けた。

「……あれ」

ずいぶんと離れた場所からきたのか、肩に少しかかるくらいの髪が濡れて束になっている。
特に何も思う事もなく、そちらを見ていると相手の目がこちらを向いた。

「……」

深は目を逸らしたが、相手は何かが気になったようで控えめに近づいてくる。

「あの……、違ったらごめんなさい」
「……?」
「時宗君、じゃありませんか?」

名前を呼ばれて、相手の顔を見直してみる。記憶の中を掠めるものに首を傾げた。

「……え、と」
「私、数住千景。あの、中高一緒だった……」

目を輝かせて近づいてくる相手を自分の中の記憶と照らし合わせる。

「……ああ。そういえば」
「やっぱり!時宗君だよね?、全然変わらないから、そうだと思ったの」

見た目が変わらない。
深水は、その頃からそうなっていったからとはいえ、一瞬、緊張してしまう。息を吐いて、なんでもない事のように。

「数住も、変わんないよ」
「えー、そうかな。変わったはずなんだけど?化粧もしてるし、髪だって……」
「いや……。見た目じゃなくて、なんていうかちゃんと覚えてる」

どんな顔だったとかどんな髪だったかで覚えているわけではない。

ただ、名前はパッと出てこなくても数住のことは覚えている。

というのも、不思議なもので、なにも変わっていないはずなのに、人ではなくなると見えるものは変わるらしい。

どこかで知っている記憶のようなものだろうか。

数住も、そういう一人だ。
どこかで出会った懐かしい匂いがする。記憶の底に沈めてしまった何かを思い出させる存在。そんな彼女の明るい声のおかげで静かだったコインランドリーの空気が一変する。

「あの頃は、ほとんど話したことなかったから覚えててくれてるって嬉しいな。今、何してるの?大学、行ったんだったよね?」
「普通だよ。普通に働いてる」
「そっか。私も」

程よい距離感の彼女は近くにいても心地よかったことが記憶を掠める。

「今日は?平日だろ?」

彼女が普通の人であるならば、この雨を避けることなどできないから、この会話もいずれ薄れていく。
だから、今を凌げればいい。

そう思った深水の言葉に、数住は話すだけでも嬉しい、と笑顔を向けた。

「今日、休みを取ったの。なんだか、急に実家に顔出しておきたくなって」
「へぇ。数住は今独り暮らしなんだ?」
「意外?大学からそうよ」

笑いながら頷く姿をみて、深水は上着を脱いだ。
数住が身に着けているジャケットはしたたかに濡れていて、おそらくその下に着ているものも、冷たくなっているのが分かる。

「それさ、上だけでも時間があるならそこで乾燥かけたら?その間、これ貸すから」

さすがに、上着以外はどうしようもないが、時計を見た数住は素直に手を伸ばした。

「ありがとう。結構、濡れちゃったからどうしようかなって思ってたの。あ、でも、これ借りちゃって時宗君は大丈夫?」
「いいよ。俺は濡れてないし」
「ごめんね。お言葉に甘えるね」

昔から数住は素直な性格だった。濡れた上着を脱いで、素直に少し大きな袖に腕を通す。
空いているランドリーに上着を入れて四苦八苦しながらも、なんとか動き出すところまでいくと、ほっとした様子で数住はソファに戻ってきた。

「三十分くらい?かかるみたいだけど、大丈夫?」
「ん、大丈夫。僕も雨宿りだから」
「そうなのね。今日、降るって天気予報は言ってなかったよねぇ?でも空は明るいからもう少ししたら晴れると思うんだけど」

話を聞きながら適当に頷く。そんな話よりも、何よりも傍にいる空気が心地いい。
無意識に近づいてしまいそうな感覚を無理矢理頭から追い出した。

「私もそうだけど、時宗君は、お休みとかもらいやすいの?」
「ん、まあ。もともと今日は休みにしてたから」
「ふうん。私は、割と、急だったから嫌な顔されちゃった」

こんな偶然もあるからまあ、いいこともあるね。

独りごとのように呟いた数住を見ながら、深水はふと首をひねる。

何もわからないはずなのに、たまにこういう者がいる。本能なのか、勘が鋭いのかわからないが、こうして数住の様に、何かを感じる人がいるのはとても不思議だ。

違和感は、様々なところに潜んでいて、本能的に深水から離れる者もたまにはいる。

「数住」
「うん?」

穏やかな声は、深水を迷わせる。

「数住はさ。もし」

もし。

「もし、何?」

もしかして。

普段ならこんなことを口にしようと思う事もないはずなのに、雨が降っているからだろうか。
不用意に口を開いてしまいそうになっている自分に驚いて、口元に手を当てた。

「……いや」

大きく息を吸い込んでから、小さく笑った。

「いや、なんでもない。雨がすごいなって」
「ああ、そうねぇ。なんか水族館みたいな気がしない?ガラスの向こうとこっちとで」
「……確かに」

どちらが水槽の中で、どちらが外なのかわからないけれど、確かにこの情景は似ている気がした。
指でフォーカスを作った時と同じように、どこからが現実と違う現実との境なのかわからないが、自分は確かにここに居るのに、はっきりと違う世界を見ている。
数住が来る前、深水が感じたものに近い。

どこか感傷的なこの感覚を、ヴァンが聞いたらやはりロマンチストだというだろうか。

「ねぇ、水族館て、時々無性に行きたくならない?私、一人でも行っちゃう」

本当の水族館にいるように、揃ってガラスの向こう側を向いたままで、数住の声がする。

「へぇ……。楽しい?」
「楽しいっていうか……、ぼーっと眺めちゃう」
「ああ……。なるほどね。そういうこと」

気に入ったものを閉じ込めて、眺めるような。

水槽という例えに急に襲ってきたわけのわからない衝動の元を見た気がした。それならば、迷うことはない。

すっかり常温になったドリンクを思い出したように立ち上がって、自販機の隣に置かれた廃棄場所に捨てた。
シンプルなTシャツ姿の深は、ガラス越しに空を見上げる。

「……もうすぐかな」
「あ、もうすぐ晴れそう?」
「うん、まあ、そんな感じ」

この雨が人の記憶を洗い流してしまうまで。

ヴィオーラたちが、人に紛れて生きるには必要なことだ。
どんな感傷を抱えても、これから起きることは変わらないのだから、何もかも今さらだ。

数住に雨の話をしても、変えられないのだから。

「じゃあ、そろそろ行くよ」
「えっ?あ、待って、上着」

慌てて上着を返そうとする数住に首を振る。

「いいよ。また今度、返してもらうよ」
「そんな、だっていつ会えるかわからないのに」
「うん、でもきっと機会はあるでしょ」

さらりとそういうと、深水は自動扉に手をかざして、まだ雨が降っている外へと歩き出した。

「え、ちょ……。時宗くん?待って今……」

引き留めようとする声に小さく笑ったが、振り返らずに歩いていく。

この雨は、深水たちには影響がない。影響があるのは人に対してだけだ。
いずれ、日が変われば緩やかに人々の記憶から周囲にいるヴィオーラたちの記憶は朧気になっていく。

「すごい土砂降りじゃない?」
「やばーい」

通りすがりの声を聞きながら、まるで当たり前のように深水は歩いているが、髪からは雫が落ちた。

ヴィオーラが、この世に生まれて、苛烈な時期を経て、自ら身を守る術を手に入れてきた。
この雨もその結果の一つなのは、深水のようにまだ変化したての者たちには、実感がわかないが、それでもありがたいとは思う。

そうした努力がなければ今頃、実験体のような扱いをされていてもおかしくはないからだ。

頭の先から、躊躇うことなくずぶ濡れになるのも普段ならできなくても今日だけは特別だ。

「こういうとことは子供みたいだって言われるかな」

流れる雫を手の平で拭って、髪をかき上げる。

世の中は常に変わり続けてきたが、その変化は良い方向に向いていたわけではない。今、人に起きている変化もその一つで、よくない方へと人々はひた走っている。

それを止める術が今は見つからなくて、ヴィオーラたちは自分たちが生き残るために人々を眠らせることにした。

記憶をなくすだけでなく、永い眠りにつく雨。
この雨が止んだら。

いつか、人々の手に戻すことができる日まで、この世の中は人ではないものたちの世界になる。

数住も。
今、こうして歩く人々も。

「でも、数住だったら、また会えるかもしれないなぁ」

ヴァンはひたすら嘆いていたが、深水の様に誰とも深くかかわらずに暮らす者もいる。
人が眠りについてしまったら、もっと孤独になるかもしれない。

日が差して、光が雲間から降り注ぐ。

やがて、空に手をかざして遠くを見ても、広い街の中で見える範囲は静まり返るだろう。

そうして人類は永遠の眠りについた。

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