雪の降る夜に
雪の降る夜に
更新日: 2023/06/02 21:46恋愛
本編
「いっちゃん、遅いなぁ…」
東京が記録的な大雪に見舞われたその夜、リリはいっちゃん、彼女の恋人を待っていた。
ふたりが暮らす部屋で、彼が大好きなおでんを作って。
けれど、遅くなるときは、いつも必ずメッセージをくれるいっちゃんから何の連絡もないまま、夜はしんしんと更けていく。
「早く帰ってくればいいのに。せっかくおでん、美味しく煮えたのになぁ」
なかなか帰ってこないいっちゃんを待つうち、リリはうとうとし始める。
無理もない。もう時計は夜中の12時を回ろうとしていた。そんなリリの様子とはうらはらに、賑やかな街の喧騒、たとえば、車のクラクションや誰かの話し声、サイレンの音、などは時間などお構いなしに続いている。
そしてまだ、いっちゃんは帰ってこない。
「いっちゃん…」
小さくそうつぶやいたリリが、すーすーと寝息を立て始めた頃、玄関でガタンと音がしたかと思うと、一人の青年が部屋に入ってきた。
足音もたてず、するするとリリのそばまで来ると、彼はリリの顔を覗き込む。
楽しい夢でも見ているのか、リリはうれしそうに笑っていた。その頬を彼がやさしく撫でる。
「リリ、ただいま」
ようやく帰ってきたいっちゃんは、リリの寝顔を見ながらふっ、と柔らかく微笑んだ。
「遅くなってゴメンね、リリ。おでん、明日一緒に食べようね」
彼女を起こさないよう、そっとささやきながら、いっちゃんはずっと、リリの寝顔を見つめていた。
翌朝、と言ってもすっかり陽が高くなった昼近くのこと。
「いっちゃん、昨日は何時に帰ってきたの?」
「んー、1時すぎだったかな。雪で電車が遅れてさ、大変だったんだよ」
「そうだったんだ。それなら、連絡してくれればよかったのに。帰ってこないから心配してたんだよ」
「ごめん、ごめん。スマホの電源、切れちゃってさ」
「充電器もってなかったの? いつも用意周到ないっちゃんがめずらしいね」
「あ、あぁ、昨日はずっと外回りだったからさ。充電器も使い果たしちゃって」
「えー、あの雪の中、ずっと外だったの? 寒くなかった?」
「寒さはそうでもなかったけど、雪に足を滑らせて、何度か転びそうになったよ」
「そういえば、昨日の夜のニュースでも、転んで怪我した人がいるって言ってた」
「危うくニュースになるとこだったな(笑)」
「ほんとだね(笑)。あ、いっちゃん、おでん食べる?」
「そういえば…お腹すいた」
「だってもうお昼だもん。昨日、遅かったからって、寝坊しすぎだよ」
「寒いからさぁ、布団から離れがたくて」
「そういえばいっちゃん、猫みたいに布団の中で丸まって寝てたよ。そんなに寒かった?」
「え、あ、あぁ、そうだね」
「おでん、いま温め直すからちょっと待ってて」
「あぁ、うん、ありがとう」
「美味しくできたんだよ。味がしみて、今日はもっと美味しくなってるかな?」
「期待してるよ」
やがて、グツグツと音が聞こえてきそうなくらいに煮えたおでんを囲んで、リリといっちゃんのブランチが始まった。
「熱っ!」
「もう…いっちゃん、慌てるからだよ」
「熱々すぎだよ、これ」
「そう? おでんは熱々なのをはふはふして食べるのが美味しいんじゃない」
「だから、熱すぎだって。やけどしそうだよ」
「いっちゃんって猫舌だっけ?」
「い、いや、そんなことは…ないけど」
「やけどしないように、フーフーしてあげようか?」
「ばーか」
ふたりは楽しそうに笑い合う。いつもと同じ、変わらない日常。特別なことなどなにもない休日の風景だった。
「いっちゃん、午後はどうする?」
「まだ雪も残ってるし、寒いし。家でゆっくりしない?」
「そうだね。DVDでも観る?」
「それもいいけど、僕はリリと話したいな」
「話? なんの?」
「別に何でもいいんだ。ただ、リリとおしゃべりがしたいだけ。最近忙しくて、なかなかリリとゆっくり話せなかっただろ?」
「まぁ…そうだけど。な~んか、変なの」
「そうか?」
「そうだよ」
結局、ふたりはその日の午後も、翌日もずっと、家でおしゃべりをして過ごした。
他愛のない話は延々と途切れることなく、楽しい時間は過ぎていく。そして…。
「リリ、そろそろ時間だ」
「え、なんの時間?」
「ごめんね、リリ」
「どうしてあやまるの? いっちゃん」
「あのね、リリ。もう、お別れの時間なんだ」
「なに、言ってるの?」
「僕は、行かなくちゃならないんだ」
「どこへ? ねぇ、いっちゃん。リリと別れてどこへ行くの?」
「とても遠いところ。リリが暮らすここからは、とてもとても遠いところだよ」
「どう…して?」
「僕はね、リリ。あの夜…雪がたくさん降ったあの夜に、本当はいなくなってしまうはずだったんだ」
「え…?」
「駅前に大きな交差点があるだろう? あの夜、そこで僕は信号が変わるのを待っていた。するとね、そこに雪にタイヤを取られたトラックが突っ込んできたんだ」
「う、そ…だ」
「すぐに逃げなきゃって思った。避けようとした瞬間、猫がいるのが見えた。僕はとっさに猫を抱き上げたんだ。そうしたらね、もうすぐ目の前にトラックが迫ってた。僕は腕の中の猫を放り投げて逃がしてあげるのが精一杯で…。それで、それでね」
「やだ、いっちゃん。そんな嘘、どうしてつくの?」
「嘘じゃない。本当のことなんだよ、リリ」
「そんなはずないっ! だって、いっちゃんは私の目の前にいるじゃない。今も私の前に」
「リリ…」
「だから、信じない。いっちゃんの話なんか、私、信じないんだからっ!」
困ったように眉を下げ、いっちゃんはリリを見つめる。なにか言おうとするものの、その口から言葉はこぼれてこない。
リリはどんどん不安がこみ上げてきて、すがるようにいっちゃんの腕をつかんだ。ところが…。
「えっ?」
確かにつかんだはずのいっちゃんの腕はそこになく、いや、腕だけじゃない。いっちゃんの姿はどこにもなかった。
いっちゃんがいたはずの場所には、白い小さな猫がちょこんと座っていた。
「ね、こ?」
「もう、時間切れだ、リリ」
「いっちゃん、どこ? どうなってるの…これ」
姿は見えないが、大好きないっちゃんの声がリリには聞こえていた。
「あの時助けた猫がね、僕に少し時間をくれたんだ」
「時間?」
「そうだよ。僕はどうしてもリリにもう一度会いたかった。そして、ちゃんとさよならが言いたかった。黙ってリリの前から消えてしまうなんて嫌だった。そう強く強く願ったんだ。そうしたら、猫が僕の願いを聞き入れてくれた」
「そんなこと…」
「どうやら、僕が助けたのは神様の猫だったらしいよ。だからね、特別に願いを聞いてくれたんだって」
「いっちゃん…」
「リリ、今まで本当にありがとう。リリと一緒に過ごせて楽しかったよ」
「いっちゃん、やだ…やだよ、こんなの」
「ごめんね…リリ。でも、泣かないで。僕はずっとリリのことを見守っているから。だから、お願いだよ、泣かないで」
「無理だよ。いっちゃんがいなくちゃ、一緒にいなくちゃ、私…」
「リリ、大好きだよ」
その言葉を最後に、いっちゃんの声はもう、リリには届かなくなった。
どんなに名前を呼んでも、叫んでも、応えてくれる声は、もう、聞こえない。
ひとり残されたリリは、途方にくれたように座り込み、それでもやっぱり、その名をつぶやく。
「いっちゃん…」
「にゃー」
まるで、リリの声に応えるかのように、目の前の白い猫が鳴く。リリは、小さな存在をそっと抱き上げた。
「いっちゃん?」
「にゃー」
リリは、もう一度、しっかりと猫を抱きしめた後、その大きな瞳を覗き込んだ。
「ミルク、温めてあげるね」
泣き笑いの顔でリリは、猫に小さくキスをした。
0東京が記録的な大雪に見舞われたその夜、リリはいっちゃん、彼女の恋人を待っていた。
ふたりが暮らす部屋で、彼が大好きなおでんを作って。
けれど、遅くなるときは、いつも必ずメッセージをくれるいっちゃんから何の連絡もないまま、夜はしんしんと更けていく。
「早く帰ってくればいいのに。せっかくおでん、美味しく煮えたのになぁ」
なかなか帰ってこないいっちゃんを待つうち、リリはうとうとし始める。
無理もない。もう時計は夜中の12時を回ろうとしていた。そんなリリの様子とはうらはらに、賑やかな街の喧騒、たとえば、車のクラクションや誰かの話し声、サイレンの音、などは時間などお構いなしに続いている。
そしてまだ、いっちゃんは帰ってこない。
「いっちゃん…」
小さくそうつぶやいたリリが、すーすーと寝息を立て始めた頃、玄関でガタンと音がしたかと思うと、一人の青年が部屋に入ってきた。
足音もたてず、するするとリリのそばまで来ると、彼はリリの顔を覗き込む。
楽しい夢でも見ているのか、リリはうれしそうに笑っていた。その頬を彼がやさしく撫でる。
「リリ、ただいま」
ようやく帰ってきたいっちゃんは、リリの寝顔を見ながらふっ、と柔らかく微笑んだ。
「遅くなってゴメンね、リリ。おでん、明日一緒に食べようね」
彼女を起こさないよう、そっとささやきながら、いっちゃんはずっと、リリの寝顔を見つめていた。
翌朝、と言ってもすっかり陽が高くなった昼近くのこと。
「いっちゃん、昨日は何時に帰ってきたの?」
「んー、1時すぎだったかな。雪で電車が遅れてさ、大変だったんだよ」
「そうだったんだ。それなら、連絡してくれればよかったのに。帰ってこないから心配してたんだよ」
「ごめん、ごめん。スマホの電源、切れちゃってさ」
「充電器もってなかったの? いつも用意周到ないっちゃんがめずらしいね」
「あ、あぁ、昨日はずっと外回りだったからさ。充電器も使い果たしちゃって」
「えー、あの雪の中、ずっと外だったの? 寒くなかった?」
「寒さはそうでもなかったけど、雪に足を滑らせて、何度か転びそうになったよ」
「そういえば、昨日の夜のニュースでも、転んで怪我した人がいるって言ってた」
「危うくニュースになるとこだったな(笑)」
「ほんとだね(笑)。あ、いっちゃん、おでん食べる?」
「そういえば…お腹すいた」
「だってもうお昼だもん。昨日、遅かったからって、寝坊しすぎだよ」
「寒いからさぁ、布団から離れがたくて」
「そういえばいっちゃん、猫みたいに布団の中で丸まって寝てたよ。そんなに寒かった?」
「え、あ、あぁ、そうだね」
「おでん、いま温め直すからちょっと待ってて」
「あぁ、うん、ありがとう」
「美味しくできたんだよ。味がしみて、今日はもっと美味しくなってるかな?」
「期待してるよ」
やがて、グツグツと音が聞こえてきそうなくらいに煮えたおでんを囲んで、リリといっちゃんのブランチが始まった。
「熱っ!」
「もう…いっちゃん、慌てるからだよ」
「熱々すぎだよ、これ」
「そう? おでんは熱々なのをはふはふして食べるのが美味しいんじゃない」
「だから、熱すぎだって。やけどしそうだよ」
「いっちゃんって猫舌だっけ?」
「い、いや、そんなことは…ないけど」
「やけどしないように、フーフーしてあげようか?」
「ばーか」
ふたりは楽しそうに笑い合う。いつもと同じ、変わらない日常。特別なことなどなにもない休日の風景だった。
「いっちゃん、午後はどうする?」
「まだ雪も残ってるし、寒いし。家でゆっくりしない?」
「そうだね。DVDでも観る?」
「それもいいけど、僕はリリと話したいな」
「話? なんの?」
「別に何でもいいんだ。ただ、リリとおしゃべりがしたいだけ。最近忙しくて、なかなかリリとゆっくり話せなかっただろ?」
「まぁ…そうだけど。な~んか、変なの」
「そうか?」
「そうだよ」
結局、ふたりはその日の午後も、翌日もずっと、家でおしゃべりをして過ごした。
他愛のない話は延々と途切れることなく、楽しい時間は過ぎていく。そして…。
「リリ、そろそろ時間だ」
「え、なんの時間?」
「ごめんね、リリ」
「どうしてあやまるの? いっちゃん」
「あのね、リリ。もう、お別れの時間なんだ」
「なに、言ってるの?」
「僕は、行かなくちゃならないんだ」
「どこへ? ねぇ、いっちゃん。リリと別れてどこへ行くの?」
「とても遠いところ。リリが暮らすここからは、とてもとても遠いところだよ」
「どう…して?」
「僕はね、リリ。あの夜…雪がたくさん降ったあの夜に、本当はいなくなってしまうはずだったんだ」
「え…?」
「駅前に大きな交差点があるだろう? あの夜、そこで僕は信号が変わるのを待っていた。するとね、そこに雪にタイヤを取られたトラックが突っ込んできたんだ」
「う、そ…だ」
「すぐに逃げなきゃって思った。避けようとした瞬間、猫がいるのが見えた。僕はとっさに猫を抱き上げたんだ。そうしたらね、もうすぐ目の前にトラックが迫ってた。僕は腕の中の猫を放り投げて逃がしてあげるのが精一杯で…。それで、それでね」
「やだ、いっちゃん。そんな嘘、どうしてつくの?」
「嘘じゃない。本当のことなんだよ、リリ」
「そんなはずないっ! だって、いっちゃんは私の目の前にいるじゃない。今も私の前に」
「リリ…」
「だから、信じない。いっちゃんの話なんか、私、信じないんだからっ!」
困ったように眉を下げ、いっちゃんはリリを見つめる。なにか言おうとするものの、その口から言葉はこぼれてこない。
リリはどんどん不安がこみ上げてきて、すがるようにいっちゃんの腕をつかんだ。ところが…。
「えっ?」
確かにつかんだはずのいっちゃんの腕はそこになく、いや、腕だけじゃない。いっちゃんの姿はどこにもなかった。
いっちゃんがいたはずの場所には、白い小さな猫がちょこんと座っていた。
「ね、こ?」
「もう、時間切れだ、リリ」
「いっちゃん、どこ? どうなってるの…これ」
姿は見えないが、大好きないっちゃんの声がリリには聞こえていた。
「あの時助けた猫がね、僕に少し時間をくれたんだ」
「時間?」
「そうだよ。僕はどうしてもリリにもう一度会いたかった。そして、ちゃんとさよならが言いたかった。黙ってリリの前から消えてしまうなんて嫌だった。そう強く強く願ったんだ。そうしたら、猫が僕の願いを聞き入れてくれた」
「そんなこと…」
「どうやら、僕が助けたのは神様の猫だったらしいよ。だからね、特別に願いを聞いてくれたんだって」
「いっちゃん…」
「リリ、今まで本当にありがとう。リリと一緒に過ごせて楽しかったよ」
「いっちゃん、やだ…やだよ、こんなの」
「ごめんね…リリ。でも、泣かないで。僕はずっとリリのことを見守っているから。だから、お願いだよ、泣かないで」
「無理だよ。いっちゃんがいなくちゃ、一緒にいなくちゃ、私…」
「リリ、大好きだよ」
その言葉を最後に、いっちゃんの声はもう、リリには届かなくなった。
どんなに名前を呼んでも、叫んでも、応えてくれる声は、もう、聞こえない。
ひとり残されたリリは、途方にくれたように座り込み、それでもやっぱり、その名をつぶやく。
「いっちゃん…」
「にゃー」
まるで、リリの声に応えるかのように、目の前の白い猫が鳴く。リリは、小さな存在をそっと抱き上げた。
「いっちゃん?」
「にゃー」
リリは、もう一度、しっかりと猫を抱きしめた後、その大きな瞳を覗き込んだ。
「ミルク、温めてあげるね」
泣き笑いの顔でリリは、猫に小さくキスをした。