藤の香り
藤の香り
更新日: 2023/06/02 21:46恋愛
本編
「藤ももう終わりかな」
「ですね。あの匂い、好きなんで残念です」
それは春も深まった夜だった。
外は何もかも押し流す勢いの雨で、春雷が|轟《とどろ》く。
光と音の間隙と響き具合で、雷は近いことが感じられる。
窓の外で盛りを過ぎつつあった藤棚の|花房《はなぶさ》はどれも、雨水を地面まで届く透明な棒のように垂らしている。
もう皆帰宅し、残っているのは彼ら二人だった。
彼も早く仕事を切り上げ、同僚たちと同様帰ればよかったのだ。しかし今となってはもう遅い。スマホが公共交通機関は現在動いていないことを告げている。
ロッカーから毛布を出してきた彼を見て、彼にとっては直属の、そのまた直属の上司が訊ねた。
「泊るの?」
「はい。課長はどうされますか? 徒歩《あるき》ですよね?」
「様子を見て帰れる時に帰るよ」
「家が近いって、こういうときいいですね」
「ほんとにいいよ。うち来る?」
あっさり言われて彼もあっさりと答えた。
「僕ここで寝るの慣れてるんで」
「そっか」
「ミスの穴埋め作業よくやってるんで」
「そうだったね」
仕事場に泊まり込むのはそれほど珍しいことではない。
オフィスの片隅にパーテーションで区切られたスペースがある。そこは応接室代わりに使われていて、オフィス用の応接セットが置かれている。その合皮張りのソファは、こういう事態になると社員の簡易ベッド扱いだ。
彼は毛布を広げて寝支度を調えはじめた。
上司の上司は腰に手を当てて窓の外を見ている。間欠的な稲妻に照らされるその姿は、何とも|男前《おとこまえ》だった。
そのとき遠くで生木を裂くような音がし、その途端、灯りがすべて消えた。
停電だった。
近くの変電器にでも落雷したのかもしれない。
彼はスマホの弱い光を頼りに、近くの壁に留めつけられていた懐中電灯を外した。しゃれたデザインの、置き型ランプとしても使えるタイプだ。
ローテーブルの上に、LEDの灯りがほの白く点る。
「停電かあ……何年振りだろう」
彼がつぶやく。
「そうだね」
彼は、存外近くで聞こえる柔らかい声に驚いた。
そしていつの間にか一人がけのソファのほうに彼女が座って、彼を見つめているのに気が付いた。
課長という肩書を持つ彼女は、いかにもナチュラルにひじ掛けに斜めに身をもたせかけている。
彼は驚いて少し身を引き、間をとった。
「どうしたんですか」
「明るいとこに来ちゃ変?」
「課長のデスクにもこれありましたよね? とって来ましょうか?」
「いや、これでいい」
そう言いながら、彼女は眼鏡を外し、ポケットからセーム|皮《がわ》を引っ張り出して拭いた。拭き終ると白いシャツの|胸《むな》もとに引っ掛ける。
その指の動きを、彼は何となく見ていた。
彼女は、ごつごつした体つきでいつも男物の服を着ていた。化粧っ気もなく無造作に髪を束ね、じじくさいデザインの眼鏡をかけて、現場にもよく出るし力仕事も率先してよくこなす。なかなかの論客でもあって、安心感の持てる仕事仲間だった。
本当に女なのかと揶揄《やゆ》されたり、または本気で尋ねられたりすると、誰彼構わず「見るか?」とバックルやシャツのボタンに手をかけるような性分《しょうぶん》でスキンシップにも動じない。
だからこの会社で彼女を女性扱いするものはいなかったし、彼女もそう望んでいる、と皆思っていた。
雨の音が剣呑《けんのん》に響く。
彼女は黙っている。
そのまま十分以上はたっぷりと、彼らは向き合って座っていた。
やっと、彼女が静かに言った。
「行ってしまったみたいだね、雷」
「はい」
「こうしてると、夜の大雨もなかなかいいもんだ」
「…………」
今、暗闇に|翳《かげ》る瞳が、物言いたげに彼をじっと見ている。
彼はこのまま黙っているのはまずい気がした。
「……あの、……ちょっと雨脚、弱くなってきた気がしませんか?」
「そうかな」
「もうすぐ、停電も復旧されますよ」
「そうかもしれないね」
「課長、もう少し待ったら家に帰れそうですね」
彼がなぜ殊更《ことさら》に喋ろうとするかわかっているように、彼女は少し気弱に目を伏せ、静かに言った。
「……ちょっと黙って」
その制止に彼は従わない。
彼はまるっきり気後《きおく》れし、とにかく喋りつづけなければならない気がしていた。
彼は気づいてしまったのだ。
彼女がなかなかの美形であること。
貧乳貧乳とからかわれながらも白いシャツの胸はつつましやかに膨らんでいること。
頼れる上司だと思っていたが本当は少ししか年が違わないこと。
そして、気取られるかどうかまるで賭けるように、あえかな甘い藤の香りを彼女が纏《まと》っていることに。
<了>
0「ですね。あの匂い、好きなんで残念です」
それは春も深まった夜だった。
外は何もかも押し流す勢いの雨で、春雷が|轟《とどろ》く。
光と音の間隙と響き具合で、雷は近いことが感じられる。
窓の外で盛りを過ぎつつあった藤棚の|花房《はなぶさ》はどれも、雨水を地面まで届く透明な棒のように垂らしている。
もう皆帰宅し、残っているのは彼ら二人だった。
彼も早く仕事を切り上げ、同僚たちと同様帰ればよかったのだ。しかし今となってはもう遅い。スマホが公共交通機関は現在動いていないことを告げている。
ロッカーから毛布を出してきた彼を見て、彼にとっては直属の、そのまた直属の上司が訊ねた。
「泊るの?」
「はい。課長はどうされますか? 徒歩《あるき》ですよね?」
「様子を見て帰れる時に帰るよ」
「家が近いって、こういうときいいですね」
「ほんとにいいよ。うち来る?」
あっさり言われて彼もあっさりと答えた。
「僕ここで寝るの慣れてるんで」
「そっか」
「ミスの穴埋め作業よくやってるんで」
「そうだったね」
仕事場に泊まり込むのはそれほど珍しいことではない。
オフィスの片隅にパーテーションで区切られたスペースがある。そこは応接室代わりに使われていて、オフィス用の応接セットが置かれている。その合皮張りのソファは、こういう事態になると社員の簡易ベッド扱いだ。
彼は毛布を広げて寝支度を調えはじめた。
上司の上司は腰に手を当てて窓の外を見ている。間欠的な稲妻に照らされるその姿は、何とも|男前《おとこまえ》だった。
そのとき遠くで生木を裂くような音がし、その途端、灯りがすべて消えた。
停電だった。
近くの変電器にでも落雷したのかもしれない。
彼はスマホの弱い光を頼りに、近くの壁に留めつけられていた懐中電灯を外した。しゃれたデザインの、置き型ランプとしても使えるタイプだ。
ローテーブルの上に、LEDの灯りがほの白く点る。
「停電かあ……何年振りだろう」
彼がつぶやく。
「そうだね」
彼は、存外近くで聞こえる柔らかい声に驚いた。
そしていつの間にか一人がけのソファのほうに彼女が座って、彼を見つめているのに気が付いた。
課長という肩書を持つ彼女は、いかにもナチュラルにひじ掛けに斜めに身をもたせかけている。
彼は驚いて少し身を引き、間をとった。
「どうしたんですか」
「明るいとこに来ちゃ変?」
「課長のデスクにもこれありましたよね? とって来ましょうか?」
「いや、これでいい」
そう言いながら、彼女は眼鏡を外し、ポケットからセーム|皮《がわ》を引っ張り出して拭いた。拭き終ると白いシャツの|胸《むな》もとに引っ掛ける。
その指の動きを、彼は何となく見ていた。
彼女は、ごつごつした体つきでいつも男物の服を着ていた。化粧っ気もなく無造作に髪を束ね、じじくさいデザインの眼鏡をかけて、現場にもよく出るし力仕事も率先してよくこなす。なかなかの論客でもあって、安心感の持てる仕事仲間だった。
本当に女なのかと揶揄《やゆ》されたり、または本気で尋ねられたりすると、誰彼構わず「見るか?」とバックルやシャツのボタンに手をかけるような性分《しょうぶん》でスキンシップにも動じない。
だからこの会社で彼女を女性扱いするものはいなかったし、彼女もそう望んでいる、と皆思っていた。
雨の音が剣呑《けんのん》に響く。
彼女は黙っている。
そのまま十分以上はたっぷりと、彼らは向き合って座っていた。
やっと、彼女が静かに言った。
「行ってしまったみたいだね、雷」
「はい」
「こうしてると、夜の大雨もなかなかいいもんだ」
「…………」
今、暗闇に|翳《かげ》る瞳が、物言いたげに彼をじっと見ている。
彼はこのまま黙っているのはまずい気がした。
「……あの、……ちょっと雨脚、弱くなってきた気がしませんか?」
「そうかな」
「もうすぐ、停電も復旧されますよ」
「そうかもしれないね」
「課長、もう少し待ったら家に帰れそうですね」
彼がなぜ殊更《ことさら》に喋ろうとするかわかっているように、彼女は少し気弱に目を伏せ、静かに言った。
「……ちょっと黙って」
その制止に彼は従わない。
彼はまるっきり気後《きおく》れし、とにかく喋りつづけなければならない気がしていた。
彼は気づいてしまったのだ。
彼女がなかなかの美形であること。
貧乳貧乳とからかわれながらも白いシャツの胸はつつましやかに膨らんでいること。
頼れる上司だと思っていたが本当は少ししか年が違わないこと。
そして、気取られるかどうかまるで賭けるように、あえかな甘い藤の香りを彼女が纏《まと》っていることに。
<了>